スペインで就職を(会社編)妻が来た

16 妻が来た
 2002年5月中旬、妻は私の様子を見るため1人でやってきた。
 日本からミラノ空港で乗り継ぎよくやって来たものだ。
 2ヶ月間の滞在のため日本食材を一杯鞄につめ重い足取りでビルバオ空港に降りた。
 私の住むデバ村では史上初めて日本人夫婦が生活する事でまた話題になったらしい。  妻の同居で家事から解放され仕事に専念でき随分生活が楽になった。 
その反面妻は家でかなり退屈な生活を余儀なくされた。
 この村でまだ私自身の友人も存在せず妻は買物以外の外出をしなかった。
 休日には妻を連れ極力外出をした。
 ゲルニカやサンセバスチャン、ビルバオに出かけた。(ゲルニカは結構近い)
 気が付けば妻は妻なりに日本料理と書で会社の同僚やアパートの大家さん達と交流を始めていた。

 話は変わるがA社在籍中私は3度ぎっくり腰になった事がある。
 1度目は軽度で薬局にて湿布薬を購入し治療した事がある。薬局は交代制で休日でも村に必ず1軒は開店している事を知った。
 2度目はさらに重く日本から持参した“ツボ”の本を見ながら自己治療で治した。
 シャワーを浴びる時や食事を作る時はかなり苦労し、1人暮らしで腰を痛めると大変な事を経験した。
 3度目は工場で起こった。台車を引っ張ろうと体をひねった瞬間大声をあげて床に倒れた。自力で立ち上る事が出来ず助けを借りた。
 工業団地の中にある診療所に連れて行かれ痛み止め注射を尻にうたれた。皮下注射の痛さに顔をゆがめた。
 会社の女性ヌリアに肩を支えられて自宅まで送ってもらった。その時妻が滞在中で助かったが1週間会社を休み療養した。
 日本でも“ぎっくり腰”を定期的に起こす癖があり接骨医で治療してもらうのが常であった。もしスペインで起こった場合いかにして帰国するかを心配した事も以前にあった。
 デバ村にも接骨医がある事を知ったのはこの後であるが。
 それにしても妻の滞在中に最悪のぎっくり腰を患った事は不幸中の幸いであった。
 妻との海外生活も2ヶ月の終わりに近づき、妻をイタリアまで送るつい
ベネチア・ミラノを旅する事を思いついた。
 会社での休暇はセマナサンタ(キリスト復活祭)、夏休み、クリスマス休暇、国民の休祭日以外に個人で自由に取れるのは年間1日だけだと聞いた。
病気やけがの場合は医師の診断書を会社に提出する事が義務付けられていた。それ以外の個人的休暇は会社に届出て残業でカバーするか夏休み冬休みに出勤して先取り休暇の穴埋めも可能となる。
 会社の了解を得て7月9日から16日迄のイタリア旅行に向け出発した。


17.夏休み
 7月31日から夏休みが始まった。
 私にはイタリア旅行の1週間の穴埋め出勤し8月9日から自分には初めて長期夏休みを得た。
 妻が来た時、村の浜辺沿いにあるカフェで妻と社長と3人で話合った。
 私の仕事の成果に対し給料を上げる事と新しいポストを与えるため夏休にスペイン語をもう少し勉強するよう言い渡された。
 給料が上がるのは良いが、ポストをもらって人の面倒を見る事には抵抗があった。
 スペイン語の勉強を続けるため電車で1時間かかるサンセバスチャンの
学校に通い始めた。
たった1時間の授業を受けるため往復で2時間を費やす割に勉強には熱が入らなかった。
 この頃はスペイン語に対する熱が冷めていたのかも知れない。
語学は何年その国に滞在しようと前向きな気持ちがない限り上達しない。新聞を読み辞書を引く事に怠惰になっても暮らしに影響しないが語学能力は確実に後退する。
 後日スペイン語倦怠期を打破するためスペイン語検定試験DELE中級に急遽申し込んだ。一夜漬けとはこの事で1週間仕事の後で食事も作らず勉強に集中した。サンセバスチャン市内の大学で試験は行われた。
 多くの外国人の中で日本人は私のみ。
 結果不合格となった。
内容通知がきて「文書を書く部門で点数不足」と記述されていた。その後スペイン語の勉強もDELEの試験にも興味はなくなった。