5-8 志望会社断念
 イケルが日本へ出発した翌日、C社の友人ペドロから電話があった。
 「会社の結論が出た。日本人は雇わない事に決まった。これからどうする?」
 「大学でスペイン語を学ぶ」
 そう伝えると、ペドロは一応、安心したようだった。
だが、電話を終えた私のショックは相当なものであった事は言う迄もない。
 7月に会社の技術最高責任者との面接があるとの事で準備をしてきた。その後会社の都合で、夏休み明けから9月に変更の連絡があったが、その時点の電話に少し暗さを感じていた。
 頭を鋭く殴られたというよりは、ボディーブローを食らったようなショックがジワジワと全身の力を奪って行くように思えた。スペインでの就職の唯一の命綱が断ち切られた。計画がもろくも崩れ去った瞬間だった。
 しかし、その夜から、スペイン語版機械設計便覧の用語解釈にいっそう力をいれる決心をした。自分に頼れる事は努力しかないと思った。
この時点でイケルの父親の会社への就職は眼中になかった。あちらが駄目ならこちらでは、あまりにみじめである。
5-9 インテル・ネット
 ペドロの電話のショックから立ち直った頃、インテル・ネット(日本語ではインター・ネット)を繋ぎたくて、街で色々情報を集めた。携帯電話を持っているので、それと接続できれば誰も遠慮をせずに使えると思った。
 スペインは現在、完全に携帯電話ブーム。15~16歳の子供でさえ、携帯電話で話しながら街を歩いている。以前は三菱系ムービー・スターが大半を占めていたが、今は多くのヨーロッパの会社が進出し、テレビや街の看板で争って宣伝している。 競争が激しくなれば電話器の価格は下がると言うものである。
 私の電話は2年前に買ったもので、古くて大きく重い。買換えの時期に来ていた。だが、携帯電話でインテル・ネットを行えば、電話器4万ペセタの他に電話代が非常に高くなるとの事。
 家主のルールデスに相談すると、
「家の回線を使用してインテル・ネットをやればいいわ」
と了解を得たので、電話会社の店に行った。タリファ・プラナという時間限定のサーバー・システムを利用すれば、料金は1カ月3300ペセタですむ事がわかり、早速申し込んだ。自分で電話線を買い、配線もすませたがCD一枚で接続の要領が解らない。日本語の解るイケルの友人に助けを求めインテル・ネットを始めた。
 サンセバスチャンの図書館に行けば30分無料でE-mailが使えるがスペイン語と英語に限定されている。町のネット・カフェに行けば30分700ペセタと高いが日本語が使える。

5-10 履歴書
 ルールデスに、ペドロから就職絶望の電話があった事を話した。彼女はかねてから、私のスペインでの就職活動を疑問視していたとの事だった。
「確かにC社はスペインでは超1流企業だけど、スペインの会社はC社だけではないわ。あまりC社、C社と言うから不思議に思っていたのよ、すぐに履歴書を作りなさい」
今思えば自分で世間を狭くしていたのかも知れない。この時点ではスペインの他の会社で、自分の経験外の仕事が見つかるとは考えられなかった。それでもルールデスの勧めに従って履歴書を作って渡した。彼女は会社でスペイン流にワープロで打ち直し、要領を整えてくれた。
  履歴書はスペイン語でクリクルン・ビタエと言う。
5-11メンチュウ一家
 妻がまだスペインにいた7月、メンチュウ夫妻を自宅へ食事に招待した事があった。 そのお礼にメンチュウから何度も昼食の招待を受けていたが、それほど親しくないのにと気が引けて断っていた。だがついに断りきれなくなり10月15日、彼らの迎えの車で家に向かった。どこから招待をうけても手ぶらとはいかない。だいたい2000ペセタ相当のものを持参する事にしていた。
 メンチュウの家は少し交通の便の悪い高台にあった。何棟かの建物の共有地にテニス・コートやプールが見えた。地下の駐車場で車を降りて、専用エレベータで5階へ上がった。
 ピソの玄関を入ると、廊下が横T字型に走り、その突き当りが食堂であった。
そこから廊下を玄関に戻る方向に8畳間のサロン、夫婦寝室、子供部屋2部屋が続く。それほど大きな住まいとは思わなかったが、それでも時価4000万ペセタはするらしい。
 サロンには長男のセバスチャン27歳と次男イニゴ21歳、彼らのそれぞれの恋人がいた。7人でにぎやかな食卓を囲んだ。セバスチャンの恋人はなかなか美人に見えた。
 メンチュウの料理は夫ホセが自慢する通り美味であった。
今まで知らなかったがメンンチュウの夫はコンピューターの関連商品の卸し商店を経営していた。

5-12絵画教室
(1)ドン・ピンセル
  9月下旬ころから、再び絵を描いてみたくなった。去年から籍をおいたままの絵
画教室ドン・ピンセルに道具を放置したままで、会費5000ペセタを払う事なく時間が経過していた。この教室の先生アルホンソの送別会に付き合えと、メンチュウから電話があったが断った。
 その代わり教室に出向きアルホンソと直接話をした。何故辞めるのかと聞いたが、
彼は答えなかった。メンチュウからあらかじめ話を聞いていたのでそれ以上の質問をしなかった。アルホンソの給料が安く、恋人との結婚も夢でしかないらしい。
 店主と交渉の結果、ドン・ピンセルを辞めるが次の仕事があるわけではない。
 美術学校を出ても就職は思うように行かない。アルホンソはすでに30代半ばであった。 
 その2週間後、再びメンチュウから電話があった。
「ドン・ピンセルに関する新聞記事を読んだ? すぐに絵の道具を取りに行きなさい」
とまくしたてる。どうも電話では埒があかない。ドン・ピンセルに行くと顔見知りの店員ニエベが詳細を教えてくれた。
「店主が仕入れ品の代金を焦げ付かし、夫婦とも警察に留置されているの。裁判所が物件の差押えに来るまでに私物を持って帰りなさい」
店主はラヂオのジョッキーやるなどのやり手であった。
(2) サンセバスチャン芸術同好会
 有難い事にルールデスとメンチュウが、それぞれの私の絵を描く場所を探し始
めていたが別々に探してくれたにも関わらず場所は一致していた。
 料金まで問い合わせていたので、後は自分の目で確かめるだけであった。
そこは「アソシアシオン・デ・アルテ・デ・ドノシティア」といい、サンセバスチャン・芸術家・同好会」と看板を掲げたクラブであった。
ルールデスの家から歩いて10分の場所で、5分程坂道を登るその中腹にあった。
玄関には「ベルを鳴らさず入るよう」と書かれていたが、知らない家に入るのに失礼であると思いベルを鳴らして待った。
しばらくすると、老人が急な階段を上ってきた。
「オラ」と挨拶を交わし中へ導いてくれた。
 彼はアントニオと言い、ここで絵を描く会員であった。
 階段を下りると受付があり、ハイメという責任者が対応してくれた。話はメンチュウとルールデスから聞いていたとおりであった。
 入会金5000ペセタ、月会費1000ペセタ、絵を描く時間は午後4時から9時まで、毎週火曜日は女性ヌードモデル、水曜日は男性ヌードモデル、木曜日はモビメントという動き主体のモデルが来る。毎火曜日には先生が来て指導する。
 小学校の教室2つを合わせた広さの部屋で、各人が思い思いにイーゼルを立て絵を描いていた。その隣室には30枚ほどの絵が価格と共に掲示されていた。
 階段下の踊り場の奥は執務室、その隣の工作室はエッチングを行う大きなローラが、さらにその隣には粘土細工をする部屋がガラス越しに見えた。
これらの設備は前の絵画教室ドン・ピンセルとは比較にならない立派なものだ。ドン・ピンセルは街の中心にあり便利であったが、月5000ペセタの会費は高すぎるし、お粗末であった。なんだか今まで騙されていたような気がした。
 外国人でも良いかと確認を取り、3か月分の料金を先払いした。それからの生活は大学とこの絵画教室でほとんどの時間を潰す事になる。
 (この会はサンセバスチャン市と信用金庫クッチャが支援していると聞いた。

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             絵画教室への坂道
(3)アントニオ
 1週間後に油絵の道具を持って絵画教室を訪れた。
アントニオはすでに来て絵を描いていた。私はドン・ピンセルに筆も洗わず3カ月間道具を放置していたため筆は固く汚れ放題であった。アントニオはそれを見て、私の筆をすべて洗い始めた。この絵画教室には筆の後処理の設備があった。湯が使え、石鹸も置かれ、廃油を処理するポリタンクも置かれていた。
 アントニオは私の筆がきれいになった事を証明するかのように、舌でなめてみせた。初日は筆の清掃処理で終わった。
 アントニオは183㎝の長身でやせ型である。78歳というが元気である。彼は私と同年の長男を頭に4人の子供を育て、今は夫婦2人で生活をしている。
 アントニオは10年前サンセバスチャンから50km内陸部に入ったオニャテという田舎でチョコレート工場を経営していた。大量生産時代に押され工場を閉鎖しサンセバスチャンに出て来たと言う。私を息子同様に思ったのか、老人の退屈を紛らわすためか、とにかく私との時間を多く持つようになった。
 夫人のセシーも日本人的な感覚を持ち合わせおり、この老夫婦との交際は楽しく続いた。
 アントニオは私のスペイン語の欠点を確実に指摘してくれた。それでも(RR)の巻き舌発音は私には不可能である。スペインの子供も最初はこれが出来ないという。アントニオはスペイン語の他にバスク語を話す。絵画教室で老人達が話すバスク語を聞いてもさっぱり解らない。アントニオは私にバスク語を教えようとするが拒否した。
 彼との会話で一番困るのは、
 「チステ(笑い話)だと前置きして、解らなかったらノーと言え」
と始めるが、なかなか笑えるものではない。
 彼の良い所はいつもメモを持参して単語を書きながら説明してくれる事だ。これは記録に残るので、私の勉強に非常に役立つ。アントニオは心臓のバイパス手術を行ったらしい。髪はほとんどないが頭は非常にしっかりしている。
 スペイン語で「ビェホ・ベルデ」とは「助平じじ」との意味の単語がある。
若い男にも適用される。スペイン南部では多くのビェホ・ベルデがいて突然日本人女性の唇を奪うと被害者から聞いた事がある。
 アントニオは上品な話上のビェホ・ベルデである。このぐらいのエネルギーは年寄りには必要で元気の源だと感じた。それに下ネタが大好きな爺であった。
(4)マニュアル先生
5時半頃大学の授業が終わる。その足で絵画教室に行き、午後9時まで絵を描く。絵を描いている時、頭の中は日本語の世界なので、周囲と会話をするのに難儀をする。
 火曜日には女性のヌードモデルと、マニュアル先生がボランティアでやって来る。マニュアル先生は年齢45歳で小学校の教師が本業との事。白髪交じりの髭を顎いっぱいにたくわえ、季節に関係なく赤いマフラーを首にかけている。芸術家のファッションなのだろうか。
 火曜日には大体40名ほどが集まって、モデルをデッサンすべく、イーゼルを所狭と並べる。モデルもさる事ながら、1週間の絵の成果をマニュアル先生に講評してもらうのも、目的だ。マニュアル先生は7時頃に、女性モデルは7時半頃に入室する。先生の講評の順番を待ちながら筆を進める。
 私の番になると、時間が長くなり、他の人からクレームが出る。
 日本人だからか、彼の言葉とおり「私の絵に興味がある」のか、会話の時間が長い。先生に言わせると私のデッサン力が抜群らしい。私が設計屋出身だからか、それなら設計屋はすべてデッサンが上手く皆画家になれる筈である。むしろ、私のデッサン力は普通でスペイン人の方が稚拙だと言う方が正しいのでは?。
 絵の基本はデッサンである。この絵画教室でも、年金生活と同時に絵を始める人が多いが、定規を使って写真を測りながら、キャンバスに図形を写すのを見る事がある。これでは立体的な不自然さが目立つ。一方私の絵はデッサンに頼りすぎるきらいがあり、詳細なデッサンをやり過ぎるので絵にならない。
 マニュアル先生は、私に対しても普通のスピードで話す。大体は解るが、微妙な点は無理である。その上絶対に加筆しないので、次週に修正した絵で確認する事になる。この先生は色のバランスをやかましく言う。そして、白色を徹底的に嫌う。理由は見る人の注意力を奪うからだそうだ。さらに現場主義者である。