5月31日 帰国 最終記事
・5月31日 帰国
朝3時半頃目覚めベッドでウトウトしながら6時半に起床、シャワーを浴びる。もう1度荷物整理後スーツケースを運び1階の玄関入口までのラセン階段を降りる。
この家にも絵がたくさんある。デバの画家が描いた絵が気に入り最後の写真を撮る。イケルは7時40分頃迎えに来た。
昨夜の交通事故のため高速道路のその場所を避けてから侵入した。
雨が降っている。
ビルバオ空港には8時40分頃到着した。空港内の駐車場の空きスペ―スがなく15分かけて探す。
エールフランスのチェックイン・カウンターは22番~27番でどれも空いている。ネットで航空券を申し込んでいるのでeチケットレシートを提出しようとすると、イケルは
「パスポート提示と名前を言うだけで良い」
と言う。言われる通りにするとそれで全てOK。荷物も預けイケルとカフェテリアの席に座る。
イケルに有難うの礼を言うと、それに対し
「スペインに来て良かったでしょう。想い出が再び鮮やかになる」
「自分は大学を中退し日本に5年滞在した事は何よりも替えがたい貴重な経験をした。人生で今から役立つと思う」
「貴方も早くに会社を辞めスペインに来た事は貴重な経験になっている筈」
と話す。
思えばイケルとは13年の付き合い。広島の我が家に2~3回は宿泊した事もある。長男の結婚式にもスペインから駆け付けてくれた。
不思議な関係である。「生涯結婚はしない」宮本武蔵の生き方を絶賛していた青年にふさわしい彼女ができた。喜ばしいことである。
9時半イケルと別れセキュリティチェックを通過する。
男女を関わらずベルトまで外す。天気が悪く雨に加え風も強い。
パリまでの小型機は満席であった。
シャルルドゴール空港のターミナルG2に定刻の12時10分に到着後小型機は空港内をかなり走り回る。乗換えは13時50分発で正味1時間しかない。少し気があせる。同空港は今大規模な拡張工事を行っている。
大阪便はターミナルE2まで移動の必要があり、空港内シャトルバスが10分間隔で迎えに来る。日本人は誰もいない。
ゲート番号E36でそこまで約30分で到着する。ゲートに着くと多くの日本人が待機していた。やっと落ち着く時間が持てバルでカフェとサンドイッチをつまむ。小銭のユーロですべてを支払ってコインをなくす。帰国後コインは両替の対象にならない。
40分前からボーディングが始まる。リムジンバスを降りAF292便大阪行き777R20に搭乗する。座席はビルバオ空港のお姉さんが言ったとおり便利の良い場所であった。二人席の通路側である。
機内はほとんど団体の日本人である。私の隣には日本人娘が座っていた。ところがスチュワーデスが食事の聞き取り時フランス語で会話する。
関空到着前その娘と話をした。父親はフランス人で母親は日本人。日本人の顔をしているので日本人扱いされ困ることもある。5月に日本に行く予定であったが原発事故で政府から日本への旅行を控えるよう勧告され6月になったと言う。日本へは語学研修で1か月滞在予定。大学卒業後日本とフランス間の交流を手伝える仕事に就きたいと言っていた。
・6月1日 大阪着
定刻の8時25分関西空港に無事到着した。辺りは雨。気温18度Cで少し肌寒い。
スーツケースを宅配便カウンターに預け携帯電話をAU事務所でレンタル電話機を返却した。自分の電話機にシムを入れ交換後すぐ自宅に電話。無事到着を伝えた。
半月ぶりの日本である。
列車の切符を購入後“はるか”に乗り込んだ。
疲れた。
これが帰国後、最初の感想である。スケッチや写真による取材は予定通り終わった。
しばらく休養して絵に専念する。メンチュウに怒られないように早々にお礼のメールを送るよう心がけたい。短いスケッチ旅行でスペイン語が6割方回復していることに気付いた。高齢者には楽ではないが、もう少しだけスペイン語を勉強してみようかという気になった。
7年ぶりの風景・言葉・料理等のバスク文化はおぼろの様であり、定かな様でもあり丁度三日前に見た夢の如きであった。 完
追)2012年夏、イケルとエレナは約1か月間新婚旅行で来日滞在し東京、鎌倉、京都、大阪、奈良、広島を駆け抜けた。もちろん我が家で食事をしたり地元の居酒屋や寿司屋も経験した。エレナは殊の外、ざるそばを好み日本を満喫した。二人は次の予定地香港へと発った。
その後メールで「私の妻が仕事を辞めたら次回はバスクで会いましょう」とのメッセージが送られて来た。
■
・5月30日 前の会社へ
朝雨が降っている。
9時頃家を出てデバの駅前のバルで朝食をとる。
銀行BBVA で換金する。
換金を終えて又浜辺のバルで風景をスケッチする。一度家に帰り明日の帰国へ向け荷物の整理を行う。
昼過ぎ午前中の仕事を終えたイケルが車で迎えに来た。
イケルの父親の大きな家に向かう。
広いダイニングにインコか大きな鳥かごの中でキーと鳴く。メードが食事の準備をする。
食事を終えイケルと会社へ出向いた。
前の会社I社は倒産のため存在しない。前社長は他に3つの会社を持っておりそこに再興を図る従業員達がいた。皆私に会いたがっていると聞いていた。
狭い事務所、狭い工場で皆頑張っている。再会を喜び記念撮影をして仕事の邪魔にならぬよう皆と早目に別れた。正直言って会社に残った若者達は7年間にたくましく成長しているように見えた。
近い将来、もとの工場に戻れる日が来ると言うが皆は声を揃えて
「一歩一歩」と言う。
会社再興を強く願望する。
仕事が終わるのを待ちイケルと黒いシェパード・トールと車でビルバオの獣医院に犬の診察に出向いた。トールは車が好きだと言う、
ビルバオの都会に入るとトールは緊張するらしい。
デバの山中に育つ犬にとって都会の雑踏には慣れてないからだ。トールを0歳の時に買った。この時4kgの体重で1年後の現在は40kgになった。0歳時代はイケルのベッドに一緒に寝ていたらしくイケルは御主人様である。
昨年散歩中に前左足の異常に気付き診察の結果、間接異常で骨の手術を2回行い現在に至っている。今術後の観察らしい。
私は日本でも獣医院に行ったことはない。
獣医院には複数の医師と診察室があり待合室には4匹の犬が飼い主と共に不安そうに診察を待っている。
X線撮影後医師の診断が下りる。
「まだ充分に骨は接着していないので激しいトレーニングをしない事、体重が過度に増加しないようにコントロールする事」
薬をもらい獣医を去った。
デバへの帰途、高速道路で事故に遭遇した。
高速道路は集中豪雨に見舞われ渋滞が始まり車の列は停止した。
ラディオは停止地点のすぐ近くでトラックがハサミのような状態でクラッシュしていると放送していた。30分程待つと後方から警察官が歩きながら
「エイバールのインターチェンジから一般道に侵入できる」
と歩いて伝えている。
トラックを除く乗用車はすべて向きを変えて高速道を逆走して近くのインターチェンジへ急ぐ。一般道から事故状況を見ると緩やかな曲線の高架橋からトレーラがぶら下がっていた。
エル・ゴイバールの中心部に古い教会が照明に照らされ荘厳に映る。教会前の広場の隅にイケルのノビア・エレナのデンタルクリニカがある。スペインで歯科医院に入るのは最初である。
イケルの話でクリニカは女性らしい配慮がなされて評判が良く中々可愛い。治療室は日本のように複数の椅子はない。1人1室となって将来は拡張するための予備の部屋も用意されている。治療室は明るい色の医療器具でコーディネイトされ私の絵を飾りたいので日本の風景画がほしいと要求された。
エレナの歯科医院の診察室
その後3人で雨の中、傘のオープンテラスに座り生ハムとコイワシのオリーブ油漬けを肴に赤ワインを飲む。来年の夏は2人で日本に行くと言う。もちろん広島の我が家にも来ると聞いた。スペインの歯科医院は夏1カ月間を休むらしい。患者が旅行で診察には来ないので。
教会をバックに二人が相合傘で歩くシルエットをカメラに収めた。
イケルの両親の家に帰り遅いセナをイケルとする。その時私の携帯電話にメンチュウから電話が入った。
「荷物の整理はついた?帰国したら私の妻に宜しく伝えてほしい」
私からお礼の電話をと思っていたがメンチュウとはそんな女性である。
その後私の描いた3枚の絵を飾る部屋で写真を撮りイケルの両親と
別れの挨拶をすませデバの家に向かった。日本への出発を前の長い1日である。
5月29日 友人ハビーと
・5月29日 友人ハビ―と
昨夜の酒のせいかあまりよくは眠むれなかった。
今いる場所はデバ村の海沿い。イケルの両親の1個建ての3階のベッドにいる。
朝8時過ぎバル・イセンベに行き主人のラモンと再会を祝した。
後数年で年金生活者となると言う。その後何をするのかと聞くと何もしないと言うが、イセンベの店を閉めることは簡単には出来ないと思う。
12時頃イケルの友人(私の友人でもある)ハビ―がやってきた。
ハビ―は37歳で独身で恋人はいない。
家もあり、車もあり、仕事もあり不足しているのはノビアのみである。
ハビ―は昨夜のナッチに似てシャイなところがある。ナッチは化粧品を売る会社を経営しているのでバスク女性にひどい目にあったのかもしれない。
浜辺の近くのホスタル件バルのベランダで椅子に腰かけマティー二を飲みながらハビ―と話す。
「妻は元気か」と聞く。
まもなくイケルの恋人エレナもやって来てイケルは最後に来た。
エレナは
「私が会った最初の日本人で、良かった。」
と言うが
VIEJO(年寄り)で申し訳ない。その上VIEJO VERDE(助平爺)と言うと吹き出した。当たっていたのだろうか。
イケルとエレナのカップルを前にしながら4人はデバの浜辺を歩く。今日は暑くなるらしく海水浴客が多勢集まっている。
散歩の途中イケルとエレナが購入予定のマンションを見に行く。
デバ駅から5分程海側に歩いた道路沿いに新築のマンションがある。玄関を入ると広いロビーがありエレベータで5階に上る。マンショ
ンは80平方メートル。広いリビング ダイニングがあり寝室2部屋等
である。屋根から大きい採光窓が室内を明るく照らしていた。まだ家
具類はベッドのみが入り照明器具も未取付であった。
来年からここで2人の生活が始まる。価格は30万 €と高い。
スペインの不動産バブルははじけたがバスク地方は土地が少ないため不動産価格は下がらない。人口2500人の村で80㎡で約3500万円のマンションは高すぎる。(給料は日本より格段低い)
エレナは用事があるからと先に帰り、ハビ―とイケルと私の3人は近くの山奥の予約したレストランへと車を走らせる。
サラダ3人分、スペアリブを食べ3人分で70 €をイケルとハビ―2人で払う。いつも申し訳ないと言うとハビ―は
「ここはスペインなので日本に行ったらお前が払え。飛行機の切符も買って送れ、だからここは気にするな。」
冗談とは言え、とんでもないことを言う。
その後私が好んで描いたロジョラ教会へ向かった。ロジョラは来日したフランシスコ・ザビエルの兄弟弟子でイグナシオが開いたイエズス会の本部である。
ロジョラは木が生い茂り庭からの木の葉越しの建物は見えない。
帰り途、19時頃エイバールのバルに寄る。バルは人で溢れていて、
この時間帯はカフェタイムらしい。中も外も人でいっぱい。最近スペインの法律でカフェの中の喫煙が禁止されこんな田舎のバルでも大衆は外部での喫煙を余儀なくされている。
エイバールは人口1万人の街で工場が多く労働者の街である。(サッカーの乾選手の所属チーム・エイバールの町でもある)
この地はハビ―の生まれ故郷である。ハビ―の買った中古マンションを見せてもらった。1人住まいにしては充分すぎる広さである。
デバへの帰り途、イケルは1年前の会社の状況を語る。
私がイケルの父親の会社を辞めたのは2004年でEU拡大によるスペイン国内工業生産の空洞化現象の始まる頃であった。その後も会社の経営状況は思わしくなく、仕事があっても利益が出ない。そして昨年に会社は倒産した。
会社の再興を支えるグループと高額な退職金を要求するグループに2分され後者はストライキを実施し、会社の前にピケをはり出勤を妨げ女子社員に卵をぶつける等の行為に及んだ。他にも社長を中傷するビラをデバ村に貼り最終的には裁判となった。結局裁判では会社側が勝利し会社の復興に向け今皆が頑張っている状態だと言う。
私には2分された両方に多くの友人がいる。もし昨年スペインに来ていたら大変な場面に遭遇していたであろう。
イケルは社長の息子としてこの機に大いに成長したに違いないと思った。自分が経営者となった場合の施策を私に話す。
彼を20代から良く知っている。30歳も歳の違う友人である。
日本に憧れ大学を中退して剣道の胴着をかついで日本に来た。苦労しながら日本語と空手を学んだ。今空手3段だそうである。
会社危機の時、傍に息子がいて両親はどれほど心強かったかと思う。
車はイケルの両親の住む1万坪の敷地、300坪の屋敷に着いた。
最初にイケルはトールと言う黒い1歳のシェパードを連れて散歩に出た。他の3匹の犬も後を追う。7年前には15歳の大型犬シェパード・ラグーンがいたが安楽死で送ったと言う。
他に牧場があってロバ4頭を飼っている。
イケルと愛犬トール
イケルの父親ホセ・アンヘルに会い母親イティアールにも会った。
お世辞可もしれぬが私が若いと言う。
ホセ・アンヘルは会社クリシスで苦労したのであろう頭に相当白いものが目立つ。まだ57歳とイケルから聞いていた。
■
・5月28日 ヴィトリアへ
昨日バスク州の州都ヴィトリアに行くことを考えバス ステーションで時刻表をもらった。そしてヴィトリア行きを決めた。今回の旅は本当によく動くと自分自身感心している。
早めに起きて7時40分に出発した。サンセバスチャン8時15分発(バス会社PESA)に乗る。
ヴィトリアはビルバオとサンセバスチャンとを底辺とする三角形の頂点に位置した内陸部にある。エルゴイバル、オナティの山間部を通過し70分でヴィトリアに到着した。
ヴィトリアは初めての訪問で詳しい事は何も知らない。
バスステーションには観光案内所は見当たらない。何も解らないまま歩き始めた。カフェテリアを発見しオレンジ生ジュースを頼む。
{生ジュースとはオレンジを目の前でジューサーにかけるものである。}
パイス・バスコのガイドブックを手にパルテ・ビエハ(旧市街)の入口を探し当てた。
人通りの少ない公園から頂上に教会の塔の見える方向に向かい歩き始めた。とある教会をスケッチするには最高の場所を見つけた。長椅子もありスケッチをした。その帰途バスステーションとフランス通りの場所を問合せながら歩く。
すると若者が向側から走って来て私の傍を通り角を曲がって姿を消した。その後すぐ少し年配の男性が携帯電話をかけながら追って行く。立ち止まって見守る人に「あれは泥棒か」と聞くとそうだと答えた。
午後2時にバスでサンセバスチャンに帰って来た。
中華料理店北京で昼食をとり、オ―ナに明日からデバに行き31日は日本に帰るから奥方に宜しくと別れを告げた。
一度部屋に帰った。今晩のセナの後イケルの車でデバに向かう。
そのためスーツケースの荷をまとめておく必要がある。
午後8時半に家を出てグロス地区の空手の先生のジムに向かう。
約束は9時であった。
空手の先生は奥さんの運転するマツダのオープンカーに乗って現れた。3年前我が家を訪れたナッチとミケルが来た。イケルはリオハに用事が出来て遅れてくると電話があった。パルテ ビエハのレストランを予約していると聞き4人で歩く。
空手の先生は61歳になると言う。もろもろのことから70歳までは仕事をすると話される。そして日産フェアーレディZの新車を買った。スペインでメンテナンスが出来るのはマドリッドやバルセロナなど大都市に限られているらしい。
運よくイケルとはマグドナルドの前で落ち合い5人となった。
街は土曜日の夜でしかもサッカーの欧州チャンピオンを決定するバルセロナとマンチェスターの試合がある日でいつもよりいっそうの賑わいを見せていた。
レストランは地下にあり室内は外観より立派に見えエレガントに映る。肉料理で行くか魚料理で行くかゲストの私に聞く。魚料理と答えた。エビやイカ、カニの甲殻魚介類に決まった。
ワインは白ではなく赤となりしかも氷に冷やされていた。
魚には白ワイン、氷で冷やすのは白のみで赤ワインは香りを殺さないためと聞いていたが。
ナッチとミケルは40歳と37歳と若い。
日本に来たとき1カ月で100万円を使って豪遊したと聞く。
広島にも我が家にも来た。今日のセナはその時のお礼だと言う。
2人とも会社を経営している。ミケルは2人の子供を持つが結婚はしていない。何故と聞くと新鮮で良い新しい形と言う。ナッチはシャイで母親がいるので嫁は必要ないらしい。
とに角よく飲みよく食べた。聞こえくる勘定は5人で約400 €。
私がペンションに払った10日分より多い。その上私は1文も払わない。それで良いのだろうか。
レストランを出る頃、すでに欧州チャンピオン決定戦は終了して3対1でバルセロナが勝ったと巷で話に花が咲く。
かなり酔いがまわり早く帰りたい気持ちであるがもう1軒と比較的落ち着いたディスコテカに寄った。殆んど中年客でテーブルを囲み座って話をしている。ブルースを踊るカップル超しに港の灯りが見える。
空手の先生も久しぶりの日本語で酔いがまわっておられた。先生を送った後でイケルは私の部屋の荷物を引取りデバに向かった。デバ到着は朝3時過ぎ。
5月27日 ジューレン
・5月27日 ジュ―レン
曇り。
今日はスケッチの予定はない。
午前中、パルテ・ビエハ(旧市街)で帽子を探した。結局気にいるものはなく諦めた。衣服とは異なり帽子は顔の一部となるためで自分の様な醜男に似合う帽子は簡単に見付からない。
アマラ地区のバル・アウケラで昼食をとる。このバルはサンセバスチャンに最初に来た13年前のアパートの下のバルである。経営者の息子ジューレンには色々世話になった。地下の食堂で食事をした。
ジューレンの妻が注文を取りながら私を覚えていると言う。
食事の後階上のバルでカフェを頼みながらジューレンと話す。
もう子供が16歳になり自分より背が高いと言う。ジューレンの意味はバスク語で6月である。
もう再会する機会はないと思いつつ店を後にした。
一度部屋に帰り横になりながら考える。
イケルの提案によりデバには明日の5月28日(土曜日)セナの後で移ることに決めていた。少し荷物の整理をしよう。
ペンション・レフィールのイナキには滞在変更と宿代を今日払う旨を伝え本日15時~16時に会う約束をしていた。
ペンション・レフィールの内部を見たことはない。
部屋代363 €を払い洗濯物を受取りながら今度来ることになればここに泊まるとイナキに話をする。その傍を若い男女2組が片言のスペイン語を話しながら「あなた何人」と質問してきた。彼らは米国人。
このペンションに日本人は多く来るかと聞くと多くはないと答えた。サンセバスチャンにはネットに記載されないペンションは他にもたくさんある
部屋の掃除をしてくれたカルメンに枕銭を幾ら置けばよいかと聞くと5 €もあれば充分と言う。
パエリア(パエジャ)作り
・5月26日 パエジャ作り
午後1時バル・ハビエルでメンチュウ達と落ち合う約束になっていた。ソシオでパエジャを作る。
メンチュウは私を見るなり「早くソシオへ行け、セバはもう来て準備をしている。
ソシオではパエジャの食材が皿に盛られていた。
エビ、イカ、あさり、ムール貝、タコ、ニンニクと、コメ、サフラン。
すでにセバが準備を進めていて私にエプロンを着けさせて始める。
浅く広い(直径50㎝)パエジャ鍋にオリーブ油を一杯たらしニンニクの香り宜しい頃材料を入れ始める、米とサフランも加え炒め水を注ぐ。水の調合が難しいと言いながら計量はせず全て感である。水の量と火加減の調整を小刻みに重ねながら火を落とし最後は鍋蓋をして大きなタオルで覆い蒸す。
テーブルにはメンチュウ夫婦、ガリシア人のマノロウとアナ夫人、ヘスウスと我々を含めた7人である。パエジャの盛付けをまかされた。
テーブルには生ハムやチーズがオードブルとして準備され赤ワインで昼食は始まった。パエジャの出来はまあまあである。
ヘスウスは初対面であるがマノローやアナ夫婦は何度もあっておりよく知っている豪放磊落で私の好みのタイプである。
夫婦はそろって血色が大変よく明るくよく笑う。
なぜアナ夫人はいつも顔色がよいのか聞くと夫マノロー曰く。
「毎日女房にお勤めを果たすからだ」
と言う。マノローの年齢は私より4つ上の当時68歳。メンチュウはそれは大嘘と遮る。
マノローはもじもじしている。変わりにホセが私に問う。
「お前は避妊具をいくつ日本から持参してきた?」
空いた口がふさがらない。私はすでに人畜無害の好々爺であるがよほどの好色家に映るのだろうか。
ソシオにてメンチュウ一家と夕食
EUSKO TRENのターミナル駅前にエアソ広場がある。その西側(山側)に建物が並びバルや八百屋など商店が続く。建物が切れる角にバル・ハビエルがある。ハビエルの小路に面した建物の2軒目が私の借りたペンションの入口である。
バル・ハビエルのオープンテラスにはメンチュウ夫婦と次男イニゴ夫婦と2人の孫がいた。メンチュウ夫婦は良きジジババをやっている。孫の可愛さは国が変わるとも皆同じである。
遅れて長男のセバスチャン(以後セバと呼ぶ)一杯飲み終わった頃ホセがソシオに行こうと言い出した。ソシオは私の部屋から見下ろす場所にあった。
奇遇なのはバル・ハビエルの経営者はホセと友達と
聞いた。
「ソシオは会員制社交クラブで調理器具、酒、大型エスプレッソ等全て揃い食材のみ持ち込めば料理ができ食事が楽しめる場所である。女性が料理を手伝う事や後片づけする事はご法度である。」
メンチュウは自宅でソパ・デ・ペスカド(魚介類のスープ)を準備していて温めるだけで、野菜を洗い盛り付けて厚さ3㎝のチュレタ(スペア・リブ)を焼けばよい。
ニンニクをおおざっぱに切りフライパンに投げ込みオリーブ油を注いでニンニクの香りが立ち始めた頃、チュレタを焼き始める。ほとんどの作業は長男のセバが行う。父親のホセは申し訳程度に前に回ったり後に回ったりして写真を撮る。次男は何もしない。次男のイニゴは仕事をしても給料の遅払いで母メンチュウに無心をしていた。(2012年スペインの経済問題がEU域内で大きな問題となっているが2011年訪問時すでに顕在化していたのである)メンチュウの息子二人とも大学経済学部卒である。
食事中長男のセバは日本料理の握りずしや刺身が大好物という。刺身は家で作って食べているらしい。
母親のメンチュウ、長男のセバは大の日本好みであるが、夫のホセ、次男のイニゴは魚の生ものは全く駄目である。母親と長男は日本へ旅行したいと言う。
ポストレ(デザート)の後にカフェに続き食後酒が続く。セバはジントニックを作る名手と言うのでそれを試飲した。その妙味はレモンにあり。レモンの薄皮を剝ぎ、それでグラスの中の氷にレモンの香りを移しさらにグラスの上縁をふく。その後ジンを入れるわけであるが、グラスの中にレモンを入れるのは飾りに過ぎないらしい。
夏の夜にジントニックを飲みながら月を眺めるのは最高にロマンチックな気分になるらしい。
この家族には過去あらゆる面で世話になった事を次から次と思い出す。それをメンチュウに伝えると「その通り」と答える。
ホセはどこか行きたいのなら車で連れていく。今は年金生活者なので暇は十分にある。私は
「パエリアが食べられるレストランでもあれば」と問うと
「日本人もアメリカ人もイギリス人も皆パエジャ・パエジャと言うがそれはスペイン中央部から南のアンダルシア地方に多く料理され北のバスクではあまり食べられない。もし食べたいのなら明日ここでパエジャを作ればよい。セバはパエジャが得意であるから」
スペインでは「パエリア」とは言わない。パエジャである。
ホセは物知りである。セナが終わるころイケルから電話があり「空手の先生とのセナは土曜日の夜になった。アイスランドの火山活動は週末には終息すると学者が言っている」と聞いた。
ホセも同じ事を言っていた。
酒が過ぎた。シャワーを浴びて持参した胃薬をはじめて飲んで寝た。朝の1時を回っていた。