スペイン・バスクスケッチ旅日記(デバ村へ)

・5月25日 デバ村へ
 朝7時起床。
 横浜からサンセバスチャンに来てバスク人と結婚した“ジュンちゃん”に電話を入れた。
 不意の電話に驚いたに違いない。
 ジュンちゃんの父親から毎年年賀状をもらっておりサンセバスチャンまで来て電話もしないで帰るのに気がひけた。
 二人の子供をもうけ上の子は5歳になると聞く。
 日本と異なる環境で子育てするのは大変だろうと思った。
 妻に2度目の電話を入れ
 「今の心配事はアイスランドの火山噴火による灰の問題である」
と伝えるが妻は知らなかった。
 市内の旅行代理店にふと立ち寄った。
青年が対応してくれる。
イタリア経由で日本に帰る片道での航空運賃を聞くつもりだったが、私の欲するミラノ発大阪行きに空席はないと言う。東京に彼の友達がいるので聞いてみると電話する。こちらとしては参考までに問いかけたまでである。東京のお友達は旅行代理店で働いているが火山爆発の情報について深くは知らない。
代理店の青年の結論は
「昨年火山灰の件を航空会社は皆経験しているのでスペイン発の欠航
は考えられない。出発の日が近づいたら又来店してくれ」
 と言う。この件は個人旅行で解決すべき問題点である。
 昼食をバル・ハビエルですませメンチュウに確認の電話を入れた。
 セナはバル・ハビエルに夜8時に集合することを確認した。
 衝動的にデバ村に行く気になった。(かって3年住んだ村である)
EUSKO・TRENの駅に行き切符を買った。40分待ちサンセバスチャン14時44分発の電車に乗る。


デバまでの車窓風景を懐かしく過去の想い出と重ねながら見る。沿線で工事が広域に渡って行われている。部分複線化か又は豪雨による土砂災害の後始末なのか。
 1時間後デバに着くと真っ先にバル・イセンベに向かった。

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          カフェ イセンべ

カウンターに中年女性がいた。ここの主人の名前は何と言うのか?
「ラモン」
「そうだそのラモンはいるか?」
「夕方7時から出勤する。夫人のマリアならいる。」
厨房からマリアが出てきた。
「オンブレ」  (驚きを表す時に使う単語)
マリアは覚えていた。少し年齢をとったと感じた。
イセンベを出てデバの周囲を散歩した。
ここには約3年住んだ。
その部屋に該当する場所の南側窓には鎧戸が下ろされ人が住む気配はない。

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   奥の建物が昔住んでいたアパート

 浜辺に回るとすでに多勢の人達が海水浴を楽しんでいる。
ベンチに腰掛け昔を偲ぶ。
 7年前に郷愁にかられ帰国したいと思ったか否か思い出せない。
きっとそうではなかった筈。今少しその気がある。齢を取ったせいか。日本が良い、我が家が良い、日本で死ぬのが良い。
還暦を迎えた空手の先生が盛んに言う。
「日本が良い」
と言う郷愁の念が少し理解できる。
 昔ソレ夫婦とピレネーのチンドキ山に登り公共墓場の
「今日は僕、明日は君」
と刻まれた入場門を思い出した。
色々考える内に帰りの電車に乗り遅れサンセバスチャンには19時44分に着いた。

スペイン・バスクスケッチ旅日記(トロサへ)

5月24日 トロサへ

 曇り。少し肌寒い。
 5月21日にアイスランドの火山噴火による火山灰の影響でドイツ北部の欧州航路の多くの便が欠航したとテレビのニュ―スが伝える。
やがてスペイン北部にも灰は到達するであろうとシミュレーション映像は語る。航空券販売会社のHIS日本に電話を入れ、もしもの事を考えMADRID支店の電話番号を聞いた。

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     RENFE セルカニア(近郊列車車内)


 トロサに向け10時に出発。
 近くのカフェテリアで朝食をとりRENFE(スペイン国鉄)の駅に向かう。
 女性画家ソレには今日トロサに行くと連絡してある。
ソレは母親をサンセバスチャンの病院につれて行くので夫のミゲルに連絡してほしいと言う。
 久しぶりにスペイン国鉄のCERCANIA(近郊電車)を利用しサンセバスチャンを12時15分出発し30分後トロサに到着した。
 民鉄EUSCO TRENと違い車体も大きく本格的な電車である。
 トロサに到着後ミゲルに電話して7年振りの再会の握手を行う。
ミゲルは私と同じ年齢ですでに年金生活を送っている。
 毎日何をしているのかと聞くと「ウォーキング」と答える。
 やがてソレも加わり近くのバルへ入りチャコリで乾杯する。
 ソレは駅近くにアトリエを賃借していた。3人でそのアトリエに向かい最近描いた作品を見せてくれる。130号はあろうかMADRIDの街風景を描く絵にはソレ流の空気が見える。
 彼女は自宅に腎臓ガンの母親を引き取り世話をしているので絵を描く暇がないと言う。
 ミゲルの運転でさらに山奥のレストランに行く。以前、妻とソレ夫妻の4人で行った田舎のレストランである。
 最初はレンズ豆(小豆に似ている)の煮込みにモルシージャ(豚の血のソーセージ)を加えた料理を食べる。酒はもちろんチャコリ。
 次に厚さ3cmはあるチュレタ(スペアリブ)で歓待してくれる。
ポストレ(デザート)に入るとソレは落着かぬ様子でタバコを吸うために外に出る。
スペインの新しい法律で公的場所では禁煙である。その上タバコの価格が急騰したと愚痴る。いずれ近い内にタバコは止めると言うがソレの夫ミゲルは昔から喫煙しない。
 食後レストランの裏庭で女主人の愛用のホンダ600CCのバイクを見せてくれた。これでヨーロッパ中を駆ける回るそうだが幼子の面倒は誰がみるのだろうか。
 中心街に戻りトロサの街を案内してくれる。トロサは昔ギプスコア県の県都であった。マリオネットの博物館にも行く。世界で唯一の博物館だそうだ。
 落着いたら日本に絵を描きに来る事をすすめ母親の面倒を見るソレと別れミゲルは車でサンセバスチャンまで送ってくれた

スペイン・バスクスケッチ旅日記(オンダビリア)

・5月22日 1日中家に引きこもる
 朝小雨。
 1日中ベッドに横になりテレビを見ながら過ごす。
 今日は休養日である。
メードが来た。彼女は中南米出身の筋肉もりもりの若い女性で部屋の掃除にきた。
カルメンだと名乗りアンタはと聞く。
 ちょうど良い。たまった洗濯物を持ち帰ってもらう。
 スペインではパンツまでアイロンをかけるのでアイロンかけの必要はないと提案した。
 昨夜イケルは私に
「デバ村に早く来たらどう、デバ村の人達が待っているよ。家は父親の家が空いているからそこに泊まれば良い」
と言うが自分の全日程を考えて見る。現在の場所は交通面で大変便利な場所にある。

  

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              オンダビリアのパラドール近くから対岸のフランス眺望


・5月23日 オンダリビア
 9時に部屋を出て国境の街オンダリビアに向かう。20分ばかりでバスは目的地に到着した。( オンダビリアとはバスク語で国境の意味、スペインでは一番雨量の多い地域)
 オンダリビアはビダソア川沿いのフランスとの国境の街である。
 16世紀にルイ13世と争った街で小高い丘は全て城壁に囲われている。昔2か月間通った画家ハビエル・サガルサスの絵画教室が頂上近くにある。
 7年ぶりに会った先生は自分のアトリエに私を案内した。近々行う個展の準備の説明をする。昔から個展開催が多すぎる先生の印象がある。
 その後パラドール(国営ホテル)近くでスケッチを描き、持参した水彩・絵の具で初めて着色を試みた。
 古い教会をスケッチしながら空腹を覚えた。
 スペイン人女性画家ソレと通ったレストラン・マムシャ(魔女)に向かうが休日であった。女性料理人エバの料理は抜群でそれでいて価格も安く残念である。
  城門の下のレストラン{大衆食堂}に入る。外も中も一杯である。約50人のお客がいる。
 サラダミクスタ・肉料理・コハダ(独特なヨーグルト)・カフェ・飲み物はビールこれで15€。殆ど労働者が占めていた。
 忙しそうに飛び回るおかみに7年前はよく来たが覚えているかと聞くとしばらく考えながら思い出したと答えた。
 昼食を終えて城壁の外側の川沿いを歩く。辺りは別荘地である。玄関からの庭が美しい。道路中央の花壇には今が旬なのか紫色の紫陽花が今を盛りと咲き誇っている。

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さらに西側に至るとヨット・ハーバーやテニスコートが目に入る。

 テニスコートの中に珍しいものを見た。テニスコートの面積半分程度の広さのコートは天井部を除き周囲は透明な壁で囲まれている。中央部にネットが張られ、その両側に2名ずつがプレイしている。ボールは硬式テニスの球よりやや小さくラケットは木性のハニカム構造で軽量化のためか小穴が開けられていた。サーブは下からでその他はスカッシュに似ていた。コート事務所で名前を聞くとPADEL(パデル)と聞いた。フランスでも流行しているとも言う。

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 サンセバスチャンまでバスで帰る。
 部屋には洗濯物が届いていた。下着はまだ湿っており次回はアイロンをかけることを指示しよう。
 テレビでは昨日の統一地方選挙で与党のPSOE(社会党)が惨敗でPP(国民党)の大勝利を伝えていた。2004年2月に同時多発列車爆破事故で200名余の死者を出した。その2日後の選挙でPSOEが勝利して以来の敗北である。その理由は経済政策の失敗にあるようで失業率25%ではどうしようもない。

スペイン・バスクスケッチ旅日記(イケルと恋人)

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  その後PASEO・NUEVO(新散歩道)を歩き中華レストラン北京にて昼食をとる。
 食後は波止場に腰掛けて港の教会のスケッチに時間を費やす。
 イケルとは6時半にサンセバスチャンで会う約束をしていた。
 スケッチの途中
「今日はサッカーの試合があり駐車場が一杯のため少し遅れると」
電話があった。
   市役所横のオープンカフェでビールを飲みながら辺りを観察する。広場で失業者のマニフェストとして太鼓を叩いて踊るグループがいる。スペインでは失業者500万人と言われるが日本人なら太鼓や踊りをする暇があればハローワークに通うだろう。
 午後8時過ぎとなりイケルからすぐ傍まで来ていると再び電話がある。恋人達は二人共Gパンに黒の長袖シャツのお揃姿にてイケルが彼女の肩を抱くようにして歩いて来た。

 恋人エレナは私を気使う。イケルと幼馴染、33歳・歯科医でクリニックを経営しているそうだ。男性より強いと言われるバスク女性にしては優しく良き時代の日本人女性を思わせる美人である。
   バルを2~3軒梯子して中央街に新しく出来たFNAC(ショッピングモール)に入った。
   FNAC(フランスの大手電気品チェーン店)の建物を今まで気付かなかった。以前はなかった。
地階にスーパー、1階にはZARAが入りエスカレータで上るとパソコンやカメラの販売店に喫茶コーナーとレジカウンターさらにその上は音楽CDや本販売コーナーがある。
陳列棚で珍しい本を見た。
    作家桐野夏代の「グロテスク」の単行本(スペイン語版)が売られていた。ページをめくると円とユーロの関係など本を読むための基礎知識が紹介されていた。
        何故スペインの田舎で?
        帰国したら是非読んでみたいと思った。
      熱々の恋人達と別れ夜9時半に帰宅した。
      今夜はサッカーの応援で青と白の縦縞のユニフォームを着た人で溢れている。
  スペイン1部リーグはバルセロナレアルマドリードの様な圧倒的強さのチームに対し9位から18位までは勝ち点が47~43点とドングリの背比べである。
     5月21日(土)時点ですでに下位2チームは2部転落が決定しており後1チームの転落か残留かを争う5試合が今夜11時から始まる。
    サンセバスチャンのチーム・レアルソシエダもその対象で残留をかけヘタフェと対戦する。メンチュウは試合を見たいのなら切符を用意すると言うが断った。ゆっくりと部屋でテレビを見ようと思った。
     試合は最初ヘタフェが得点しその後ソシエダが追いつく展開となった。テレビでは他チームの試合経過を刻々と告げる。
   一番転落に近いラ・コルーニャデポルティボ)が1点リードされていた。我々のみでなくベンチサイドにも情報は流れていた。残留には勝つ必要はない、引分けでよかった。相手に球を与えず自軍フィールドで延々と球回しを行う。結果引分けで両者共1部リーグ残留が決まった。観戦する側から見れば全く面白味のない試合であった。
ラ・コルーニャは1世紀の歴史の中で初の2部リーグ転落となった。私がスペイン滞在中はいつも上位にランクされバルセロナやレアル
マドリードに次ぐ強豪チームであった。

 

   

スペイン・バスクスケッチ旅日記(ミラ・マール宮)

・5月20日

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        写真 ミラマール宮殿とコンチャ湾浜辺

 

 朝4時に目覚める。
 洗濯物を片付けながら部屋での洗濯は難しく洗濯を依頼する。コインランドリーの様な気の利いたものは見当たらない。
 メードが本日午後4時頃部屋の掃除に来るとも聞いた。
 コンチャ湾の西側に位置するPALACIO MIRAMAR(宮殿)に進む。宮殿はスペイン王室からサンセバスチャン市に寄付され一般公開されている。(コンチャ湾はサンセバスチャンの北側で大西洋に接する)
 メンチュウ夫婦と宮殿の下で落合い。彼等のマンションを訪れ昼食を馳走になった。
 テロ集団ETAの話になった。
 10年前までバスク地方に日本人観光ツアーが訪れる事は考えられなかったがパリに向かう機内でスペイン北部のツアー客が多くいた。
 ETAの問題はどうなったのかとホセに問うと
 「ETAはもう終わった。」
 と聞いた。本当なら喜ばしいことである。

 

スペイン・バスクスケッチ旅日記(その3)

5月19日 パンプローナ
 
 今日はパンプローナに行く。
今回の旅の最大の目的はパンプローナのPLAZA・CASTILLO(カス
ティジョ広場)をスケッチする事である。
 ペンションの前のバル・ハビエルで簡単な朝食をとりアマラ地区の
バスステーションに向かう。

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 切符売り場でパンプローナ行きの切符を買う。7€。
 まだ時間があるのでアントニオ爺さんの家に電話を入れた。電話に
セシイ夫人が出て私を覚えていてくれた。
 「アントニオは昨年亡くなった」と言う。
セシイの声に元気がない。
 妻同伴でしばしばアントニオの家を訪問し色々と世話になった。
 特にインフルエンザにかかった時は年寄りの経験から即効的なアド
バイスをもらって無事にすんだ事もある
83歳からパソコンを始め簡単な画像処理を行っていた。
連絡がないので生死が気がかりであったがやはりと思った。
 昔住んでいたフェリッペ・クアトロ地区に向かうが場所が解らない。
やむなくバスステーションに戻りパンプローナ行きのバスに乗った。
パンプローナナバラ州の州都で毎年7月のサンフェルミン祭りの牛追いで死者を出す程有名な街、サンセバスチャンより内陸部に入った場所にある。ナバラ州も昔はバスクの一地方であった。)

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 ピレネー山脈の間を飛ぶようにバスは走る。谷間に橋脚を立てその上に橋桁をかけ高速道路を構成する。シートベルトをしっかり締直す。
 約1時間でパンプローナのバスステーションに到着した。駅は地下1階にあるため方向が解らぬ。出口も解らない。
 案内所で観光地図をもらった。
 空腹を覚えマクドナルドでハンバークを注文してかぶりつく。
 店のねえさんに(カスティジョ広場)への道順を教えてもらい地上に出ると辺りに広い芝生が広がる。その上で寝そべる3人の若い女学生に目的地を確認した。五稜郭を思わせる城郭跡を見ながら歩く。
 現在100号の絵に挑戦中のPLAZA・CASTILLOのスケッチにやってきた。私の描く作品は雨風景であり今は雲一つない晴天である。

 スケッチを含め3時間は付近をうろうろするが、雨風景は創造で描くしかないと思った。
 この地に1泊することも考えていたが雨の降る気配もなく引揚げるためバスステーションに向かう。
 バスの遅延にいらだち再三切符売り場を詰問する。
「何故バスは来ないのか」
 後で気付くが私自信が時間を間違えていた。
 バスステーションは地下にあり円柱空間の円弧を約20ヶ所放射状に分割しバスの乗降口が設けられている。
 パトカーが次第に増えて5台となり警察官がバスステーションの中を警羅する。気の毒にアラブ風の男性二人が職務質問を受け身分証明書の提示を求められて電話確認されている。
 私には挨拶もなく安堵する。
 2時間待った後やっとバスが到着して帰路につく。
ピレネー山脈越しに夕陽が美しく映える。

スペイン・バスクスケッチ旅日記

・5月18日 7年ぶりのサンセバスチャン
  朝4時に目覚めた。道路側の窓が完全に閉まっていなかったので外の音で目を覚ました。
  朝食は1階の受付の奥に準備されていた。
  隣席に日本語で会話する年配の夫婦がいたので話しかける。
 彼等はこのホテルに2~3回宿泊し、今回は「夫に初めてサンチャゴ・デ・コンポステーラを案内するため」に来たと言われスペイン旅行のベテランらしい。
 私の出身地を広島と説明する。彼等は岡山市からだそうで奇遇である。
 今から南のブルゴス経由でサンチャゴに行き30日には日本に帰る個人旅行だと説明を聞いた。
 9時にホテルを出てビルバオ市のEUSKO TRAIN駅(エウスコトレン駅)を探す。
 すぐ近くだと聞いたが結構距離はあった。自動券売機の使い方は記憶しているがコインがすぐには間に合わない。
 何とか9時34分出発快速電車に間に合いサンセバスチャンへ列車は向かう。隣席を占有した黒色のバスク・ベレー帽(ゴラ)をかぶった老人達のグループは笑い声を交え会話している。
 懐かしいバスクの田園風景を見ながら列車は11時50分終着駅サンセバスチャンに到着した。
 そのまま予約済みのペンションを探す。
 サンセバスチャンに約3年住み知り尽くした筈である。 
 ペンションの地図を左手にスーツケースを右手で引きながら歩く。
 方向を何度も間違え通行人に位置を確認しやっと辿り着いた。
 インターホーンを押すとペンションのオーナー・イナキがビエン・ベニ―ド(welcome)と言って玄関扉まで迎えに来た。階段を上り受付でパスポートを渡してチェックインが終了する。
「部屋はすぐ近くにあるので案内する」
と言い、イナキは私のスーツケースを取り歩き始める。

 EUSCO TRAINの駅前広場近くまで戻り建物に入りエレベータで5階に昇った。
 廊下には3軒の玄関戸がある。
 一番奥まった扉がそうらしい。鍵を開け中に入ると玄関からのアプローチをコの字形に廊下が続き最初の扉が私の部屋であった。
 広さ8畳程の寝室とその隣にバスルームがあり寝室にシングルベッド2つが並べられていた。
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 最初宿は3星ホテルにネットを介して予約していた。料金はシングル素泊まり60€(7,200円)で以前に妻と宿泊したことがあった。場所、設備等申し分ないものであった。
スペイン出発前にネットで見直すとペンション・レフィールがアンケート結果ランク1位で30~32€と低価格である事が解った。メールを送付しても返事はなくスペイン語で電話を入れるとイナキが出て部屋の予約の話となった。
私の要求はバスルームとテレビが部屋にある条件である。イナキから日本の我家に確認のための電話を入れなおした後、後メールで予約が成立した。―――――――――――――――――――――――
テレビを他の部屋から運び込み条件は満足した。
ペンションの場所も満足するもので今から12日間滞在するには価格も充分である。私にとって部屋は寝るだけで安い方が良い。
 イナキは満足かと聞く。そうだと答えた。
 ペンションを出て馴染みの中華料理店“北京”で昼食をとった。
 その足でグロス地区にある日本人の空手の先生のジムに向かう。
 午前中、先生に電話を入れており3年振りの再会である。先生は懐かしそうである。還暦を迎えたと言われるが厚い胸板はスポーツマンとしてなお衰を感じさせない。
「一度イケル達とセナ(夕食)をしましょう」と言う事で別れた。
 少し雨が降り出した。
 サンセバスチャンは市民や観光客がよく歩く街であり、歩かせる魅力のある街だが、変わったのは自転車専用道路の区分帯が新設されバイク利用者が増えた事。
 部屋に帰る前に近くの八百屋で水、菓子パン、ジュースを買い込む。
 5月16日からのたまった替着をバスタブの中で手と足を使って洗濯するが干す場所がない。バスタブの上のカーテンレールにかける。
 日本時間の午後7時半頃、妻に無事到着の電話を入れた。