スペイン・バスク・スケッチ旅行(その1)

    スペイン・バスクケッチ旅行
     平成23年5月17日~6月1日

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        スペイン・パンプローナ風景(この絵を完成させるための旅行であった)

はじめに
 スペイン・バスク州のサンセバスチャン市はテロ集団ETA(バスク祖国と自由)の本拠地で、外務省の海外危険情報にも記載された地域であり日本人が訪れる事が珍しいベールに覆われた美しい地域である。  

 その地域の中で日本語の介在しないスペイン企業で働きながら生活の約7年間滞在した。
 帰国後6年目、再びスケッチ旅行に出かける計画を立てていたが他の仕事などで実現せず2011年まで延期した。航空券は1月に手配していたが3月11日東北大震災の被害を見て自粛も考えた。しかし人生最後の旅行になる可能性もあり出発へと踏み切った。

 以下スペイン・バスク・スケッチ旅行で散策した旅日記を想い出として綴る。
 主な登場人物地・地名等の案内
イケル:バスク青年、日本に5年間滞在、日本語を話す空手有段者
メンチュウ: 家庭の主婦、家族ぐるみの付合い、メンチュウはバスク語でである。スペイン語ではカルメンの意 私と同い年
ソレ: トロサに住む女性画家
サンセバスチャン:人口15万人の観光都市 バスク州ビスコ県都
ビルバオ:人口40万人の工業都市 バスク州ビスカヤ県都
ビトリア:アラバ県都バスク州


5月17日 ビルバオ空港へ到着
 何度見ても空からのビルバオ空港の夜景は美しい。
大都会の夜景のような華美なものではないが素朴な印象が長旅の疲れを癒してくれる。
 2011年5月17日関西空港を(日本時間)午前11時15分に出発してパリ・シャルル・ドゴール空港を経由し(現地時間)午後10時20分にスペイン北部のビルバオ国際空港に無事到着した。
 到着ロビーの階上待合室のガラス越しにバスク青年イケルの顔が見えた。髭を多く顎にたくわえたイケルはチェ・ゲバラの風貌を思わせる。
彼だけにはスペイン訪問をメールで伝えていた。
イケルと会うのは何年振りか、固い握手の後イケルは私のスーツケースを軽々とトヨタRAV4に積み込む。
 予約済みのホテル・ハルディン・ビルバオは空港から約5km離れた市中心部にある。イケルもホテルの地図をコピーしていた。
 ホテルに到着後、彼は部屋まで荷を運び近くのバルでチャコリ(微発泡の白ワイン)を飲みながら話をした。彼は私が妻と来ると思っていたらしく、単身ならデバの両親の家(空き家)を利用すれば良かったのにと言う。
 イケルに恋人が出来た事はメールで知らされていたが、彼女が同級生で幼い頃からの片思いの女性と聞いた。話は尽きないが夜も更け互いの携帯電話の番号を交換して別れた。

スペインで就職を(会社編)最終回 日本へ

38.日本へ
 5月中旬のヨーロッパ旅行からデバ村に帰り6月22日帰国の日迄にまだ1ヶ月はあると言うのに生活は荷造作業に明け暮れ、他は送別会に追われた日々であった。
  会社の同僚、空手の先生、メンチュウの家族、83歳を迎えたアントニオ夫妻、新しい友人の画家ソレの家族、バルの主人ラモン夫婦、社長夫婦を含めた彼らの友人達、社長家族との送別会は出発の前夜遅くまで行なわれた。
・・・・・・・・・・・・・・・
   無謀とまで言われた熟年男のスペイン就職の夢はかない、短い期間ではあるが会社生活を送ることが出来た。
   その間色々と物議をかもす自分に対し同僚が言うには
「君は仕事のために生活するのか」
「我々スペイン人は生活のために働く、そして生活は楽しむものである」
   と言われた事を明確に記憶している。
  彼等の文化に憧れてスペインに来た筈なのに習慣のチェンジは容易には出来なかった。それでも同僚や友人達に一つ一つ教えられ大義なく過ごす事が出来た。彼等に感謝をしたい。
  振り返ればスペインを訪れて約7年目を迎えている。
  文豪セルバンテスが学んだ大学の街アルカラ・デ・ヘナレス(マドリッド郊外)での語学スクールでの勉強を皮切りにバスクへ移り住み語学スクールや大学で学びながら就職活動を行った。
  会社生活を送りながら油絵の個展開催や「スペインで就職を」の全国出版をする等スペインに来なければ出来なかった様々な体験した。
 今スペインを去るに際し色んな想い出が去来し胸が詰まる思いがする。
 長男の結婚式が終わり次第、短期間ではあるが絵を学ぶため再びスペインにやって来る。
  そのためセンティメントな思いは少し希釈される気がする。
  2004年6月22日朝5時過ぎ妻と共にデバ村を発ちビルバオ空港へ向かう。
        
      完
  本項を持ちまして第2部を終了させていただきます。長い間読んでいただき真にありがとうございます。しばらく準備に時間を要しますが第3部を続けて考えております今しばらくお待ちください。            筆者 Viejo71

 

 

37.ヨーロッパ旅行(2004年5月10日~5月24日)
 妻にヨーロッパを見せたく思案した。
 今年はマドリドでテロがあったばかり、当地では次はロンドンが危ないと噂が流れた。結局ロンドンを避けてパリ、ブリュッセルアムステルダム
 フランクフルト、プラハ、ブタペスト、ウィーンと7カ国を15日で回る事にした。
旅行客は3星ホテルか4星ホテルを選択でき、安価なコースで費用1人1000ユーロ(13万円)。スペイン人に混じっての団体ツアーである。
  ところがシャルルドゴール空港に迎えが来てパリのホテルが集合場所となる。何か間違いがあると困る。
  日本の国内ツアーのように宿泊ホテルの住所、電話番号のリストは用意されない。パリのホテルだけでもと詳細をメモした。
 5月10日ビルバオ空港を出発し何とかパリのホテルに到着した。
  一同顔を会わせた、40人程のメンバーでスペイン各地からパリに集合したことが解った。
  パリで3泊した。
  私は4度目のパリ観光、妻は2度目で少しは知っている積りである。
  2日目の団体行動の後、ルーブル宮の前の簡易レストランで食事を同席した同世代夫婦が自己紹介をしてくれた。
  主人がホセ、夫人がマリア合わせてホセ・マリアと笑わせていた。(ホセ・マリアは男性の名前である)
  この夫婦コロンビア人で結婚後政情不安定な母国を捨て米国に渡りロッキード社で職を得て定年退職後、現在スペインの南部で年金生活をしていると聞いた。
 旅の途中、食事をいつも同席するようになった。
   ホセ65歳マリアは57歳でホセは少し浅黒く一見して中南米人と判るがマリアは完全にアメリカ人に見えしかも美人である。
  「コロンビアを出てから40数年母国に帰ったことはない、今年のクリスマスにはアメリカ経由でコロンビアに帰り母親に会う」
 そして又スペインに来るらしい。彼らは勿論英語も話すがそれを聞く事はなかった。
    二人は異常な程愛しあい、常に体に触れていないと気がすまないらしい。
 パリからブリュッセルアムステルダムとバスの旅で途中ライン川の川下りを楽しんだ。
    フランクフルトで他のツアー客と別れ鉄道でチェコまで旅をする。
   このツアーは7日間が基本日程で私達は2つの連結ツアーを予約した事になる。
   ホセとマリアと私達の4人のみが列車でチェコに向かう。
    チェコハンガリーEU加盟国に決まったとは言え加盟するのはまだ数年先のことらしい。両国は貧しく思え物価も相当安く感じた。
 (チェコハンガリーでは風力発電装置を殆んど見る事もなかったが、オーストリアに入ると多くの装置が存在した)
    最終目的地ウィーンで初めてにわか雨にあった。プラハ、ブタペストに比べウィーンは豊かで美しい都市である。
   ウィーンから空路バルセロナへ向かいホセ・マリア夫婦と別れた。
   15日7カ国の旅は急がしすぎた。
   特にプラハとブタペストはよく似て明確に分別された記憶がないが妻は満足したらしい。
(スペイン国内でも{パリ~フランクフルト}と{プラハ~ウィーン}の個別のツアーが一般的である。我々の住むデバ村からビルバオ空港まで約70kmの距離を2往復する事になり経済的理由から連結ツアーとした。)

 

スペインで就職を(スペインテレビ事情、確定申告)

35.スペイン・テレビ放送事情
 夜はあまり出かけず専らテレビに専念する。
 スペイン国営放送ETVにコマーシャルが入る。
 その代わり日本のように受信料を取らない。
 この放送には教育番組と総合番組の2チャンネルからなり、コマーシャルも慣れてみればおかしくはない。
 民放もそうであるがコマーシャルの回数が少なく1回が非常に長い。
 1回15分はあるのでこの時間を使って一仕事が出来る。
 映画など中断が入ると前に何を見ていたのか考えてしまう。
 週末はコマーシャルなしの映画を流すがこれも又しんどい話で他の事は何も出来ないからである。
 バスク語放送が1チャンネルあるが全く解らない。サッカーの試合中継がよくあるのでボリュウ-ムを絞って見る。
 国営放送ではワールドカップ等国を挙げての試合を中継するがスペイン1部リーグの試合中継は全くない。
 サッカーの試合を見ようとすれば衛星放送との契約が必要で多くの村民はバルへテレビを見に行き人の黒山が出来る。
 土曜・日曜の午前中は子供向けの番組が多く日本のアニメ“キャプテン翼”等も毎週放送されている。アニメの主題歌は日本語で流されるので面白い。
夏休みには子供向放送を多く流すため18歳以上対象の番組などこの時期は姿を消す。
 普通のテレビジョンを購入すると文字放送が見れる。
 文字放送は各放送会社の番組からスポーツの試合予定・結果から天気予報とかなりの項目が見られる。
 スペイン皇太子妃候補レティシアが国営放送のニュース・キャスターをしていて婚約発表前夜に番組降板の挨拶をした事がある。
 妻は彼女がお気に入りであった。
 彼女は離婚経験者であった。さらに両親も離婚していて我々の感覚からすると「エー」と思う。恋愛については自由な国である。

 

 

36 確定申告
 日本のサラリーマンの年末調整は会社がほぼ全てを担当してくれるが、スペインでは3月4月に個人が税務署に出向いて行なう必要がある。
 昨年はこの確定申告には行かなかった。
 給料から税金等を源泉徴収されていても確定申告は納税者の義務であり自ら税務署に出向いて手続きを果たさなければならない。
 昨年は忙しさにかまけて税務署には行ってはいない。
 私達のようにアパートを借りている者にとって払戻しの対象になることは明らかと聞いていた。
 先ず税務署に出向き揃えるべき必要な書類を受取り何時提出できるか予約を取る。
サンセバスチャンの税務署に行くと案内がバスク語で書かれ場内放送もバスク語のみでスペイン語は使われない。
 受付で整理券を取って待つ。
 順番が来ると事務所内に並んだデスクの番号が表示されてそこに行き身分証明書と記入ずみの資料を提示して税務職員と打合に入る。
 書類に目を通しながら質疑応答が繰り返される。
(自分には払戻しがあると確信している。)
 昨年までどうしていたのかと言う事が問題になり担当者は上司を含め4人程が私を見つめながら話合を進める。
 今年は今年の事で出頭しているので昨年のことは問題ではないと思っていた。家主の申告にも関係するので気が気でなかった。
 家主がアパート収入を申告してないとそれはそれで問題になるはずで私の問題ではないがややこしい事に巻き込まれたくない。
 やがて担当者が席に戻り提出した書類からコンピュータに向かい入力作業を始めた。  いらぬ事とは思ったが何が問題かと質問した。
 やはり昨年までの申告の事であった。
 それで払戻しはもらえるのかと聞くと、
「問題はありません、2日後に貴方の口座に1000ユーロ(約13万円)振
込まれる」
 と聞き一安心をした。
 申告から手続・支払が大変早いと思ったし貴重な経験を得たとも思った。
 確定申告は源泉徴収であっても毎年欠かさず行くべきであるが私にはこれが最後の機会になりそうである。

スペインで就職を(がリシア5泊6日100ユーロの旅)

34.100ユーロで5泊6日ガリシアの旅
 3月はポルトガル旅行、5月はヨーロッパ旅行に行くと決めていた。
 妻は退屈し4月に何処か旅行したいと言い出した矢先新聞に100ユーロ(1万3千円)ガリシア5泊6日ツアー(4月12日~17日)の案内を見た。
旅費、ホテル、食事付きである。
 信じられない安さである。
 旅行代理店に出向き確認した結果、新聞広告は正しかった。早目に予約し
ないと一杯になるよと言われ即金で支払う。
 サンセバスチャンでの集合時間が朝6時と早く電車がない。タクシを利用すると50ユーロ掛かる。
 50ユーロ(6千5百円)はそれ程高い金額ではないが100ユーロの旅行
代金に50ユーロのタクシ代はどう考えても不釣合いである。
 そんな話をよく行くバル・イセンベの主人ラモン(50歳)に面白おかしく話をしていた。
 ラモンもそれに合点して突然
「よし自分が車を出そう」
 と言い出した。そんな積もりで話したのではないと固辞したが
「問題ない。朝7時までに店に帰ればよい」
 と言う事で話はまとまった。
 旅行には案内パンフレットがなく集合時間と場所のみ指定されていた。
 どこに宿泊するのかも不明である。
 安価ゆえ手間は掛けられないのか、ミステリー旅行である。
 その日が来た。早朝5時半ラモンは3000CCのジープ型日産車に乗り家の
下で待っていた。
 サンセバスチャンのバス駅にはそれらしきガイドは見当たらない。
 周りに同じ様にバスを待つ人達がいて、ガリシア行きを尋ねると
 「そうです」
 と答える。
やがてバスが来て乗り込む。バスは簡単なリクアライニングシート付きで
贅沢なものではない。
 挨拶が始まり2人の運転手が交代しながら600kmの距離をガリシアに向
かうと説明後出発した。
バスはブルゴス経由でバジャドリッドまで南下しそこから進路を西のガ
リシアに向けて走る。
ガリシア地域に入るとオリーブ園が10kmも20kmも続く。
  そして夜の8時過ぎにポンテベドラ地域の入江のホテルに到着した。
 4星ホテルでまだ新しい。部屋割りをもらい中に入ると日本の旅館をイメ
-ジさせる広くて明るい部屋である。気に入った。窓からプールが見える。
 夜の10時全員食堂に集まった。食事も充分である。
 翌日から南はポルトガル北部、北はサッカーで有名なデポルティボの本拠
地ラ・コル-ニャ等毎日朝8時半から夜7時までバスで旅行に出かける。
(弁当まで用意してくれて)
最も記憶に残るのは“サンチャゴ巡礼”最終地の教会のミサを見学した事
である。天井から吊下げられた香炉の振り子運動を見た。
 ホテルで女性社員が妻に日本語で何か書いてくれと頼む、妻は持参した筆
ペンでスペイン語の名前を当て字を使い漢字で書く。
 それを始めると人の列が出来た。
 妻はどこでも人気者である。
 私達がベースにしたホテルはリアス(入江)にあり湾内のかきや貝のイカ
ダを見ていると瀬戸内海の安芸津~呉の風景を思い出す。日本のリアス式三陸海岸はここから名前が来ている。
 何故この旅行が開催されるのかを聞くと、シーズンオフに来客は少なく宣
伝広告に金を費やすなら体験してもらう方が良いとの選択だそうだ。
 前の会社の同僚に話すが100ユーロ5泊6日の旅を誰も信用はしない。

スペイン滞在回想録 (ポルトガル旅行)

32.ポルトガル旅行
  

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                           リスボンの通り(役所の前)

 マドリドのテロの影響と天候不順でポルトガル旅行が伸び伸びになり妻から強く催促されていた。
 空路にするか自分で車を運転するか鉄道の旅にするか随分迷った。
 極力旅費を切り詰めることが最大の要件で列車の旅にした。
 リスボンで菓子店を経営する日本人女性をホームページで見つけ電話で日本人ガイドをお願いする事にした。
 ヨーロッパ旅行で個人的なガイドを依頼するのは初めての事でやはりテロの影響で神経質になっていたのかも知れない。
 3月下旬の出発となり旅は夜行列車で10数時間を要した。
サンセバスチャンから内陸部に入ったブルゴスに広大な雪原が見えた。
リスボンに到着前の風景を見ながら妻は
 「辺りの家の屋根に雨どいがない」
 と不思議がっていた。
 翌日の昼前にリスボンに到着した。
 市内では日本のスズキ車が多く走行している。
リスボンのタクシーは随分と荒い運転をする。ホテルまでの道であわや追突しかけた。
リスボンは小さな可愛い街である。
 物価が安く旅行するには良い場所でしかも暖かい。
 日本のカステラ菓子を逆輸入したポルトガル人は日本人を妻に持ち大蔵省前で菓子店を開いていた。
 そこで日本人ガイドと落合いリスボンを案内してもらった。後日観光バス内でアメリカ在住の日本人女性の1人旅に出会った。
 その夜、ガイドから聞いたレストランでアメリカ在住の女性と私達夫婦でポルトガル料理を美味しく味わった。
 途中出会った日本人観光ツアーの方達はマドリドのテロでスペインを避けてポルトガルに来たと聞いた。
 3泊5日の旅は予算オーバすることなく雨に会う事もなく無事にデバ村に帰った。

 


33.眼鏡を買う
 私はよくメガネを落とす。従って傷だらけのメガネをかけている。
 妻からメガネを新調することを勧められていた。
 メガネは乱視と老眼の遠近両用でレンズ幅が広い。今は細いメガネが流行だと友人から聞いていた。
 しかも老眼の度も進みいずれ買い替えを日本でと考えていた。
 妻の進めるスペイン購入は品質的に満足出来るものか疑いを持ち続けていたが背中を押される形でデバ村のメガネ屋さんに入った。
 日本のメガネ屋に負けない程の検査設備を持っていた。
 それでいて日本で買うより価格が安いと思った。
 メガネを受け取り着用するとずれて鼻眼鏡になってしまう。鼻宛を1枚追加したがそれでも不足して2枚目を処置してもらった。
 考えてみるとスペイン人や欧米人との顔の骨格の違いに気が付く。
 鼻が高いと言う意味は目の位置を基準にした目と鼻の相対的距離が大きい事である。 掘りが深いと言われる事でもある。
 検査から完成までに日数を要しこの問題に気付くのが遅かった。

スペインで就職を回想録(絵画教室、マドリドテロ)

30.絵画教室 
 メモしていたハビエル・サガルサスに電話をかけたのは1月の終わりの日であった。  とにかくホンダリビアに出向くことにした。
 私達の住むデバ村から高速道路を走って80km先のフランスとの国境に面した街ホンダリビアが存在する。
 周りを城壁に囲まれた小高い丘の上に絵画教室があった。
 生徒が来て既に絵を描いていた。
 10坪程度の日の差し込まない絵の具とテレピン油の臭いがきつい教室であった。

 生徒は60歳頃の奥様方が中心でその中に絵のレベルが際立つ3人の女性がいた。
その1人にソレと言う身長170cmを越える甲高い声の50歳前後の女性がいた。彼女の絵の描き方は障子貼りに使う大きな刷毛とコテを用いる。非常に早く絵を描く方法と色彩感は突出していて私の興味を引いた。
 会って間がないと言うのに、日本語を教えてくれと言う。
 しかも最も汚い言葉である。
「くそったれ」
を教えるとハビエル先生に向かい
「くそったれ」を連呼する。
 彼女が何者なのか周りの人に聞くと、まだ絵を描き始めて5年程なのに昨年スペイン全土の新人賞部門第3位に輝いたと聞いた。
絵が上手い筈である。
 それから週2回高速道路を走り妻と私は絵画教室に通った。
 妻は退屈だったろうが手土産品に胡瓜巻きとか日本の食物を作っては皆に紹介して結構人気者になっていた。
 先生ハビエルの頭は完全に剥げているが、私と同じ年齢で10歳の頃から絵を描き始め多くの賞を手にして現在に至っているらしい。
特にスペイン王妃からメダルを授与される写真を彼のパンフレットに載せていた。

31.3月11日マドリード・テロ
 2004年3月11日、朝8時頃からテレビが喧しくマドリドの異常を告げていた。
 最初は何が起こったのか良く理解出来なかった。
 時間の経過と共にマドリドのアトチャ駅やアルカラデ・へナレス近くの駅他で列車爆破の同時テロが発生したと映像を写す。線路上に遺体やけが人が多く横たわっていた。(スペインのテレビ放送で遺体にモザイクをかけない)
最初は20人から30人程度の犠牲者と報道していたが最終的には200人近くの大惨事だと解った。
スペイン・バスク地方には「バスク祖国の自由と解放のため」の“ETA”(エタ)と言うテロ集団がいる。
 この事件が”エタ“によるものと想像することは容易であった。
 現在も活動していてスペイン全土に渡るテロ行為は日常茶飯事のことであった。
ただ規模が大き過ぎた。今までホテルや自動車に爆弾をしかけてもその30分から1時間前には警察にどの地域で爆発が起きると予告の電話があると聞いていた。要人暗殺にはこの予告はなく突然の事件になるが。
 このテロ発生の夜には政府治安担当報道官がETA(エタ)の行為であると報道した。
 その後にアルカイダ系のグループの犯行声明が発表されスペイン全土に衝撃が走った。
 2日後にスペイン総選挙が行なわれた。
 イラク派兵を行なってきた与党PPは選挙前の大勝利の予想に反し、イラク早期撤退をスローガンにした野党PNVに勝利を譲った。
 その翌日デバ村の駅ホームに迷彩色の軍服姿で自動小銃を携帯した数名の兵士が列車から降りる乗客のリュックや鞄の中を検閲していた。
 バスク地方では通常時でもコントロールと呼ばれる特別警戒が突然行なわれる。以前会社の車を買わないかと言われて試乗していた時このコントロールに遭遇したことがある。
 十数人の兵士が道路を遮り、私の車に小銃を突きつけて窓を開けろと命令した。試乗車なので開閉のボタンがどこにあるのかもたもたして緊張した事がある。
 トランク、室内全て検閲されパスポートまで提示した覚えがある。
 自動小銃で脅迫されるのは心臓によくない。