スペインで就職を(会社を辞める)

28.会社を辞める
 妻が2002年一度スペインに来てから1年が過ぎた。
東京のスペイン大使館との交渉の結果、妻のビザ交付の準備が整いフランクフルト経由で単身ビルバオ空港にやって来た。
ややこしいフランクフルト空港を乗り継いでよく来たと以前に増して感心した。
丁度その頃、ミラノ見本市に出展する試作品にトラブルがあり休日を返上して仕事に専念していた。勿論夜遅くまで。
 夕食の支度ができたのに帰宅しないと妻は何度も携帯電話をかけてきた。

 一方、会社では組合員と会社幹部との集会が何度も行われていた。
ヨーロッパの軽いインフレとチェコハンガリーEU加盟国に推挙され多くの企業が中央ヨーロッパに進出してスペイン国内に空洞化現象が起こっていた。
会社はもろに被害を受け注文が激減していた。工場の生産を見てもそれを
理解することが出来る。(私は長く他の工場で働いていたため)
 入社当時150人いた従業員は今90人に減りさらに会社を維持できる最低
60人体制まで人を減らすため希望退職者を募る集会が何度となく開かれた。
 希望退職者はなかなか集まらず、いよいよ解雇通告が近づき社員達は皆神
経質になっていた。
私の立場も微妙であった。私は外国人でしかも、最年長従業員であり生産技術という間接的な業務を担当していたからである。
友人の父親が社長である。
私に出来る事があればと考えていた。
今は1人でも社員を減らす事がこの会社を助ける事になる。
 妻がスペインに来るまでに社長に対し自分が身を引く話をした。
「それは必要ない」とあっさり拒絶された。
 その後、解雇された筈の社員が再び工場に帰ってきていた。この地方の同
業種組合の本部に泣きつけば解雇は無効になる。
妻に会社を辞める事を相談した。
 妻は怒りだした。せっかく日本の知合いに別れを告げスペインに来て2ヶ
月そこそこで日本には帰れない。 
その上、冬物、夏物などの衣服も送付してきたのにそれを着る事もなく日本に送り返すのは残念である。
首を縦にはふらなかった。
 それでも妻を何とか説得した。そして解雇された。
会社に勤めて2年4ヶ月。
辞める事は以前から常に頭の隅にあった。可能なら60歳迄は勤めたい気持ちはあったが。
仕事を失う事は労働ビザ更新が不可能となり帰国を意味する事になる。
丁度2003年のクリスマス休暇前で57歳を迎えていた。


29.失業手当
 2004年1月。必要な書類を会社で整えてもらい隣町のスペイン版ハロー
ワークに出向いた。
少し緊張していた。
ハローワークには多くの他の会社の失業者が列を作っていた。
これ程まで不況が深刻化していた事に気付かなかった事を恥じた。
 ハローワークの担当者に不足の書類を指摘され会社との間を2~3回往
復した。
給料の約7割の額が失業手当として8ヶ月間支給される事になった。
1年勤めることで4ヶ月間支給される。
そして仕事の紹介依頼をしたがおそらく無理であろう。
外国人でしかも高齢が問題で、この地方全体に不況が押し寄せ解雇はあっても採用は無理だと思った。
 妻にわびるため失業手当支給期間を利用しヨーロッパ等2人で旅行しよ
うと妻に話していた。その位の蓄えはまだ確保していた。
 それとこの期間を利用し油絵の勉強をやろうとも考えていた。
以前、メンチュウ夫婦と国境の町ホンダリビアを散策途中、画家ハビエル・サガルサスの絵画教室に偶然立ち寄った。
生徒の描く絵の素晴らしさに見入ったことがあり、是非そこで絵を学ぼう
と考えていた。仕事を辞めたら勉強に来ると先生ハビエルに言った事がある。
機会は巡ってきた。
 絵画教室に行く前の1ヶ月間家で四六時中絵を描いた。
1年前に日本に持ち帰った絵に値段が付き妻は日本で絵を売り始めていた。私には信じられぬ事であったがそれは事実であった。

スペインで就職を(女性に言ってはならぬこと)

25.労働ビザ延長
 労働ビザの有効期間は最初が1年、2回目更新が2年、3回目以降が5年間隔の様に暫時増加していく。2回目の更新時、期限の1ヶ月前に行政出先機関に出頭して必要な書類をもらい、会社や個人的な記入を済ませて国家警察でビザの交付を受ける。
 国家警察は木立深いアマラ地区にあり事務所の前は相変わらず、自動小銃を構えた警察官が警備にあたっていた。
今迄は事務所の中で順番を待っていたが、申請者の数が増えたせいか降雨でも事務所の外で傘をさして待つ。
 労働ビザ延長手続きの要領が良く判らないため最初は手間取るが最終的に簡単に手続きを終了した。
この時の問題は妻をスペインに呼び寄せるのに時間がかかると言われた。先ずは私のビザ延長後にその手続きに入ると説明を受けた。


26.女性に言ってはならないこと
 夏休みを日本で過ごしバスクに帰った会社の初日の事であった。
若い受付嬢に挨拶をしながら少し肥えたのでは思った。
その通り口にして伝えた。
すると突然血相を変えて怒り出した。
 「私は肥えてなんかいないわ」
 驚いた。性格のきつい娘と思っていたがそんなに怒る事でもあるまいと
合点がいかない。他の人に話してみるとそれは絶対に女性に言ってはならぬ
事だと教えられた。
 スペイン人は浜辺(プラジャ)を大変に好む。
 若い女性のみならず塾年女性でさえも冬場には肥満に目をつむりせっせと美食した代償に翌年の5月頃からジムに通って減量に取り組む。
 その目的は夏の浜辺の水着姿にふさわしい体形を維持しようとのねらいである。
 女性にとって浜辺の楽しみは日光浴で砂浜に寝転んで体を焼く事である。
サンセバスチャンに行くと、ブラジャーも脱ぎ捨て肌を焼く姿を少なからず見かける。(それを眺める男性諸氏も多くいる)
 印象派画家モネが描いた日傘をさす婦人風景は全く見られない。
 1世紀前のことである。
 若い女性の小麦色の肌は健康的で美しいが、塾年女性の真黒に変色した肌は見るに耐えがたい。
 日本女性は紫外線から肌を守るため暑さもいとわず保護に努力を惜しまない。
 これ程まで違う生活文化は1世紀の周期で揺れ動くのかも。
 バル・イセンベの奥の壁には100年前に撮影されたデバ新広場で日傘をさす婦人達の白黒の大きな写真が証拠の如く貼られている。
 

27.役所はコネの世界
 労働ビザ延長の交付を受けた。妻の滞在ビザ手続きの質問をすると最短で
10ヶ月は必要と冷淡な説明を聞き唖然とした。
以前友人メンチュウから
「友人が書類関係の官公所の所長をしているので、困った時にいつでも言ってくれ」
と聞いた事を思い出しメンチュウに相談した。
 メンチュウ曰く
「彼女は国内関係の書類担当で外国人の事まで影響があるか解らないが話をしてみる」
としばらくその話を忘れていた。
 1ヶ月も経過しない内、国家警察から携帯電話に電話があった。
「貴方の奥さんのことで至急出頭すること」
 訳が解らぬままサンセバスチャンの警察に行くと、
「書類が整ったので今から日本のスペイン大使館で手続きに入りなさい」
 後日メンチュウに礼を言うと彼女の友人は
「管轄外の仕事ではあったが、一番下に置かれた申請書類を一番上に
置き直しただけの事」
とあっさりと言う。そして
「スペインでは“コネ”が大切なの」
と付け足した。

スペインで就職を(会社編)結婚式・葬式

23 結婚式
1.) 結婚式
 スペインの結婚式に2度出席した。
 その内、披露宴には一度だけ呼ばれた。(2003年3月会社の同僚)
 披露宴に呼ばれることは出費を伴う。
 平均的に2万円程度は祝儀を準備しなければならない。
礼服を持参していない自分は背広と靴を新調した。
 年に4~5回呼ばれる若い女性は悲鳴をあげる。上述の祝儀はスペインの
物価から考えれば結構高価である。それに衣装も必要。
 祝儀は新婚者が披露宴の費用を支払った後、新婚をスタートさせる資金になると言われている。
 日本の結婚のように、全て揃えて新婚生活をするのではなく生活をスタートさせて必要なものを揃えて行く。
長い同棲生活を経ての結婚なら必要品は整えられ御祝儀は預貯金に回る筈である。
 結婚式直前に花嫁・花婿達は女性友達あるいは男性友達のみで前夜祭を徹夜で行い独身時代に別れを告げる。この会に異性は立入り禁止の習慣がある。
 さて、結婚式は大きな教会で400人から500人が列席して行なわれるが全てバスク語なので解らない。理解しようとの努力も不要である。
 驚く事は参列する女性の服装である。
 会社に勤める独身女性はいずれも胸部を大胆にくりぬいた黒いドレスを身にまとう。今まで見た事もない彼女達の装いである。
日本人感覚では結婚式に参加する女性は慎ましくと思っていたが逆であった。体は完全にファッションの一部である。
 式場から出ると、生米を新郎・新婦及び参加者に投げつける。
その意味合いは解らぬが。

2.) 披露宴
 結婚式から披露宴の間に1時間程度の余裕があり、お互いグラスを片手にお喋りが始まる。やがて、ぞろぞろとレストランの会場に移動する。なんと300人はいる。(ご祝儀を出した人達である)
一般的な披露宴の出席者数はこの程度が普通だと聞く。
 何時始まったか、判らぬように食器に料理が用意され隣のテーブルの準備状態に関係なく食事を始める。
 スピーチはない。
 新朗の家族を代表して等スピーチは一切ない。日本でやり過ぎのスピーチもこのように皆無なのは寂しい気がする。
 途中皆から新朗・新婦にキスをせがむ拍手が沸き起こる。
 カップルはこれに応えるがそれ以上のスピーチはしない。
 皿一杯盛られた料理が5~6皿は出てもう腹一杯である。やがて葉巻が配られてカフェを飲み披露宴は終わりとなる。
 この時夜中の1時。これで終わらないのは予測出来る。
 それからダンスが始まる。
 テーブルを会場の端に寄せて広いスペースを作り老いも若きも適当に相手を見つけてダンスが始まる。
社交ダンスではない。誰がリクュエストするのかマンボ・ジルバ、モンキ-、ワルツの音楽何でもある。
 ひどいのになると食事の準備用のサイドテーブルの上に上がり皆を指揮するような格好で踊る。よく見ると会社のベテラン作業長でズボンを下ろし
パンツ姿で踊りだす。
 式場の係員に「危ないからおりて」、
 彼の奥さんからは「恥ずかしいから止めて」
とテーブルから降り上りを繰り返していた。
お開きになったのは朝の5時。命がけの披露宴である。


24.葬式
 さすが、スペイン滞在中に葬式には参列したことはない。
 葬式は家の中では行なわれない。
 結婚式同様、教会で行なわれる。教会は便利である。
 私の住むデバ村には大きな広場が2か所あり、それぞれが新、旧と呼ばれる、旧広場は教会(7世紀建立)の前に噴水を伴った大広場を言う。
 その教会の海側に居住区をはさみ共同墓地がある。
 両者の間には郵便局もあるが死者の通りと呼ばれている。
 死者の教会への搬入、搬出はこの通路を使うのでそう呼ばれる。
日当たりの悪い、陰気な場所である。
 この搬入、搬出時に遭遇すると一切通行禁止で葬儀が優先される。
 村の警察官がコントロールして車や人の出入りを禁じる。
 テレビで見るテロ事件等の犠牲者が教会から霊柩車により搬出される場面で車はクラクションを長く鳴らし参列者全員が拍手で送る。
死者に対する気持ちの表し方が拍手しかないのであろう。こんな事を日本で行なったら殴られても仕方がない。
 スペインでは埋葬墓地が不足し段々と火葬が増えているとも聞く。
 いつぞや、ピレネーのチンドキ山で共同墓地を見た事がある。
 広場の片側の岡を利用し、何段、何列もの横穴式埋葬穴が設けられている。それぞれに蓋があり写真や名前が刻まれ取手に花束が飾れていた。
 この公共墓地には入退場門がありその上部横梁には
   “今日は私、明日は君”
   意味深長な言葉が刻まれていた。

スペインで就職を(会社編) 同棲、自動車を買う、保険の高価さ

21.同棲生活
 恋人はスペイン語でノビオ・ノビアと言う。(末尾は男性・女性名詞の
変化である)
 最近の恋人達は結婚に至るまでの、同棲生活を経る若者文化がある。
 これを、パレハ・デ・ヘッチョと呼ぶ。(Pareja  de  hecho)
カトリック教徒の強い宗教的文化を持つ国でありながら、離婚を避けるため試行期間を置くらしい。現在は女性の職場への進出がめざましいため、マンションは2人で折半して購入する。
 同棲生活の結果子供ができた場合は結婚に進むが破局の場合はマンションを売却して分ける。(ローン借金も残る)
 同棲生活の中で破局を迎える話も少なくない。
 事実、同僚で少し短気だが仕事ができ、女性にもてるJ君は同棲中で翌年結婚式を挙げる準備にかかると話していた。
 その1ヶ月後ノビアに逃げられたと聞いた。
 結婚相手に関し親が口出す事はありえないが、同棲生活に入る前に家族に
は正式に結婚対象の相手として紹介する準結婚である。(役所にも届出る)
 スペインでの結婚式を含む休暇は法律で2週間の有給休暇が認められて
いる。初婚でも再婚でも適用できる。
 一般的に男性・女性共、婚期が遅い。
  中には9年間も恋人のままの人達もいる。
 何故と聞くと女性の方は家にいれば母親が全てやってくれて何も不自由しないからと言う横着者もいる。
 恋人のいない30歳半ばの男性は独立して家事も全てこなし不自由しないから結婚の必要もなくその機会にも恵まれないと言う。
 バスク女性の性格のきつさも理由なのかも知れないが。

 

 

22 車を買う
1.) 中古車ホンダ・シビック
 アパートから会社まで通勤距離が7kmある。
 今まで同僚仲間の車に便乗してきたが、出勤時間がころころ変りついに車
を買う必要に迫られた。
 スペインは国際見本市の様にメーカー・車種の車が豊富である。
 あり過ぎて如何なる車を何処で買えば良いのか解らない。
    勿論中古車であるが。
サンセバスチャンに住む友人メンチュウの主人に車探しを依頼していた。車が見つかったので見に来るように連絡があり、休日に出向いた。
 走行距離12万キロ、7年前のホンダ・シビックで約45万円。
 エアコン無、手動式変速機。濃いグリーン色で外面塗装は申し分なかったが走行距離12万キロに抵抗があった。日本なら廃車を考える走行距離である。
 この国で20万キロ走行するのが当たり前らしく、変速機は手動式が一般的でディーゼルエンジン車が多い。
 この車を買う事に決めたのはメンチュウ夫婦の奨めと中古車のディーラーを彼等が良く知っている事への信頼である。
 さらにはハンドル周りの操作部品が日本で使用していた車と似ている点であった。
 2003年2月に車代を銀行に振り込んだ。

2.) 自動車保険
 次は保険である。保険に入らなければ車には乗れない。
 この保険が大問題であった。
 社長夫婦から友人である保険会社の幹部社員を紹介してもらった。
保険金が年間25万円必要だと言う、しかもこの保険は相手にしか支払われないもので自損事故には適用されない。
 車を45万円、保険25万円とは信じられない。
 それはスペインでの免許証切替え後1年しか経過してないので高くなるらしい。私は日本で40年前に免許を取り何年も車に乗っていると言っても他国の話で保険業界では理解されない。
 大いに困った。
 車屋には金を支払っているがそこから車を移動できない。
 考え付いたのは“日本大使館で日本の免許書を翻訳してもらった時のコピーを送付してもらう事”である。
自動車免許証のスペイン切替えは日本大使館で翻訳後それにサインをもらい簡単な機能試験合格後に有効となる。
 その翻訳にはいつ免許を取ったか日付が書いてある。それを保険会社に提出して社内での検討を待った。
 結果3~4年前に免許を取得した事として16万円まで値下げとなったがそれでも思わぬ出費であった。車と言い、保険と言い高い買物であった。
 スペイン国内で若い人達が車を買い乗り回している背景には親名義の車にして親の免許取得後の年数から算出する安い保険料金支払いの裏があるらしい。保険にはフロントガラス破損事の保障の条件を追加した。

3.) 左側通行と縦列駐車
車も保険も一段落したが、次は左通行の対処である。
会社の車を使って練習した事はあるがT字形三叉路の1本道から合流する時必ず反対車線を走る。
 言われたことは「道路の中央側に運転席がいつも来るようにしなさい」であった。
 解っていても出来ない。変速機が手動なのでやる事が色々とある。
次第に慣れてくるが、ガソリンスタンドで給油直後に反対車線に入り対向車を発見しぶつかる寸前にハンドルを切って難を逃れた事もある。
 その次に困った事は縦列駐車。日本であまり慣れていない。
 駐車は路上駐車で早い者勝ちである。
前後を車に囲まれた狭い場所での縦列駐車は難しく随分と時間を要する。
 たまりかねたスペイン人が指導に来る事も一度や二度ではなかった。
 ホンダ・シビックは快調に走り通勤を楽しくさせてくれる。
 海岸線の断崖に設けられた道路は急な曲線が右に左にうねる。ハンドルを切り違えると20m下の海に真逆さまに落下する様なスリルに飛んだコースを走る。景色は絶景である。(表紙の絵はデバ村への入口道路)
 但しエアコン無しに真夏に高速道を走るのは問題である。

 

 

 

スペインで就職を回想録(同僚と夕食会、サッカー)

19.同僚と夕食会
 会社の仲間達と一緒に食事をする事は通常は行なわれない。
 その理由が車通勤のせいか文化なのかよく解らなかった。
 皆で宝くじを買いその積立金がある程度たまった時に気の合う人の送別会を兼ねて食事会が催される、
 しかも上司は絶対に呼ばない。
 食事会は夜の10時頃始まるがその1時間前にあるバルに集まり、幹事が適当に前金を集金する。その後で3軒から4軒のバルを梯子した後でレストランに向かう。バルではピンチョ(注)を摘みながら酒を飲む。
 食事はその場で各々好きなメニュウを選ぶが、値段が高かろうが安かろうが全て割り勘である。遠慮は無用で好きな料理と好きな酒を頼むことになる。
 前菜から始まりメイン料理、ポストレ(デザート)食後酒、葉巻までが割り勘の対象になる。
 食事会の終わりは夜の12時から午前1時頃であるが、これでは終らない。それから2次会、3次会へと出かける。行く場所は小さなディスコで全員が納まる店を探す。
 暗く喧しく狭い中を幹事が酒の注文を得て踊りが始まる。
 今まではこの付き合いに辟易していたが、踊りなぞ見るものではないと悟った私は踊ることに専念した。皆踊りは上手い、若い人達は動きの激しい踊りを踊っている。皆ダンスは得意のようである。
 私は海老踊りを披露した。(活きエビが跳ねるように)
 東洋のおじさんがフロアー中央で踊るので注目の的となる。技術部の1人は酔っていたのか、近くの他のグループの娘さんに
「東洋のセックスはいかが」
と質問をした。娘は私の前に踊りながら位置を変えて
 「いいわよ、それで何時よ、私は今からでもOKよ」
 「とんでもない」
 そんなジョークがあって時間は、朝の5時を過ぎる。54歳の身には疲れと眠気が襲う。
 皆帰りそうもない。私の住む場所は20km程離れた場所で誰かの車に便乗するしかない。結局ディスコを出て海岸で風を受けて酔いを醒ませ6時過ぎにその場所を去り朝の7時に自宅に着いた。
 食事会とは2日がかりである
 スペインでも飲酒運転の規制は厳しくなって高額の罰金が課せられる。
 朝の5時がこの検問の一番多い時間帯で6時過ぎなら大丈夫と聞いた。
注)
 ピンチョとはバスク特有の酒のツマミであり大きさは握り鮨よりやや大きくパンの上にエビやコイワシの油付け等色々載せて準備したものである。1個100円から300円で大皿の上に盛られ客が好きな物をとって食べる。左手にワイングラス、右手にピンチョと言った具合に。
 昔新聞で東京から業者がピンチョの作り方を勉強に来たと言う写真入りの記事を見たことがある。


20.サッカーと週末
 スペインはヨーロッパ諸国同様サッカーの大変盛んな国である。
デバ村もレアル・ソシエダと言うチームの熱狂的なファンが多い地域の一つである。
 隔週、この村から約40km離れたサンセバスチャンで行なわれるホーム試合の応援に出かける。その応援にはチームから手配されたバスが往復にあてられその運賃は1ユーロ(130円)程度で、この村人にとっては週末には欠かせない楽しみの一つになっている。
 夜中12時頃そのバスが村に帰ってくる。
 勝てば勝って、負ければ負けて若者達はレアル・ソシエダの応援歌を合唱してそれぞれが帰途につく。丁度アパートの下がバスの終着点で多少迷惑を被ることもあるが、私もレアル・ソシエダ ファンの1人である。
 このチームはレアル・マドリドやバルセロナのような強くてスーパースタ-を抱えるチームではなく例年15位から下の順位を往来しながら、かろうじて2部転落を免れる弱小チームである。
 ところが2003年のスペイン1部リーグで大異変が起こった。
 我チームは前半戦負け知らず後半戦も最後までレアル・マドリドと優勝を
争って直接対決の最終戦で敗れた。
 それはトルコから来たニハトと言う非常に足の速いフォワ-ド選手の活躍があって大変な騒ぎとなった。
 バス・サービスはこの村だけに限ったことではない。
 交通の便の悪い場所に大体このシステムが適用されサンセバスチャンの
 アノエタサッカー場には多くのバスが駐車しているのを見た事がある。
 サンセバスチャンに住んでいた頃、友人メンチュウから入場券を融通してもらい試合をよく見に行った。会社に勤めだしてその機会に恵まれなかった。
 しかし長男が大学院卒業の休みを利用しスペインに来た時、社長のはからいでアノエタサッカー場の特別席(屋根付き、冷蔵庫付きマス席)を用意してもらい父子で観戦した事がある。
           アノエタサッカー場f:id:viejo71:20181021104819j:plain

 

 

スペインで就職を回想録(会社生活その1)昇給

18.昇給
 夏休みが終わり又仕事が始まった。
 社長は出張で会社には2~3日顔を見せない。
 相変わらず設計の同僚の通勤車に便乗して自宅から会社までの往復に利用させてもらっている。彼は年齢35歳の離婚者で技術部の実質的責任者であった。
 公私共に良く相談にのってもらっていた。
 昇給の話を聞いてみた。
 スペインの会社では賃金交渉は会社生活で一度程度、それ以外は許されない慣行らしい。
 私の立場を知っている同僚は絶対に申出るチャンスだと言う。
 日本の会社で給料交渉の経験が全くない。
 組合が代表してその交渉を行い、個人的に分配が決まるもので幾ら欲しい等と言えるものではなかった。
 私のスペインでの給料は平均的な額だそうである。
 大体要求する額の腹積もりは決めていた。
 そして社長が出張から帰り社長室に呼ばれた。

 少し緊張していた。(金の事になると緊張する悪い癖である)
 社長から一方的に回答が出た。
 税、保険等引き去り後の額の140%増が言い渡された。
 私の考えていた額に隔たりがあったが、それで了解をした。
 「仕事の成果によってまた交渉の機会はあるのか」
 「それは勿論のこと」

 この時点で会社の置かれている環境の悪さを理解していなかった。
 後で考えてみると会社としては精一杯の回答ではなかったのか?

 

スペインで就職を(会社編)妻が来た

16 妻が来た
 2002年5月中旬、妻は私の様子を見るため1人でやってきた。
 日本からミラノ空港で乗り継ぎよくやって来たものだ。
 2ヶ月間の滞在のため日本食材を一杯鞄につめ重い足取りでビルバオ空港に降りた。
 私の住むデバ村では史上初めて日本人夫婦が生活する事でまた話題になったらしい。  妻の同居で家事から解放され仕事に専念でき随分生活が楽になった。 
その反面妻は家でかなり退屈な生活を余儀なくされた。
 この村でまだ私自身の友人も存在せず妻は買物以外の外出をしなかった。
 休日には妻を連れ極力外出をした。
 ゲルニカやサンセバスチャン、ビルバオに出かけた。(ゲルニカは結構近い)
 気が付けば妻は妻なりに日本料理と書で会社の同僚やアパートの大家さん達と交流を始めていた。

 話は変わるがA社在籍中私は3度ぎっくり腰になった事がある。
 1度目は軽度で薬局にて湿布薬を購入し治療した事がある。薬局は交代制で休日でも村に必ず1軒は開店している事を知った。
 2度目はさらに重く日本から持参した“ツボ”の本を見ながら自己治療で治した。
 シャワーを浴びる時や食事を作る時はかなり苦労し、1人暮らしで腰を痛めると大変な事を経験した。
 3度目は工場で起こった。台車を引っ張ろうと体をひねった瞬間大声をあげて床に倒れた。自力で立ち上る事が出来ず助けを借りた。
 工業団地の中にある診療所に連れて行かれ痛み止め注射を尻にうたれた。皮下注射の痛さに顔をゆがめた。
 会社の女性ヌリアに肩を支えられて自宅まで送ってもらった。その時妻が滞在中で助かったが1週間会社を休み療養した。
 日本でも“ぎっくり腰”を定期的に起こす癖があり接骨医で治療してもらうのが常であった。もしスペインで起こった場合いかにして帰国するかを心配した事も以前にあった。
 デバ村にも接骨医がある事を知ったのはこの後であるが。
 それにしても妻の滞在中に最悪のぎっくり腰を患った事は不幸中の幸いであった。
 妻との海外生活も2ヶ月の終わりに近づき、妻をイタリアまで送るつい
ベネチア・ミラノを旅する事を思いついた。
 会社での休暇はセマナサンタ(キリスト復活祭)、夏休み、クリスマス休暇、国民の休祭日以外に個人で自由に取れるのは年間1日だけだと聞いた。
病気やけがの場合は医師の診断書を会社に提出する事が義務付けられていた。それ以外の個人的休暇は会社に届出て残業でカバーするか夏休み冬休みに出勤して先取り休暇の穴埋めも可能となる。
 会社の了解を得て7月9日から16日迄のイタリア旅行に向け出発した。


17.夏休み
 7月31日から夏休みが始まった。
 私にはイタリア旅行の1週間の穴埋め出勤し8月9日から自分には初めて長期夏休みを得た。
 妻が来た時、村の浜辺沿いにあるカフェで妻と社長と3人で話合った。
 私の仕事の成果に対し給料を上げる事と新しいポストを与えるため夏休にスペイン語をもう少し勉強するよう言い渡された。
 給料が上がるのは良いが、ポストをもらって人の面倒を見る事には抵抗があった。
 スペイン語の勉強を続けるため電車で1時間かかるサンセバスチャンの
学校に通い始めた。
たった1時間の授業を受けるため往復で2時間を費やす割に勉強には熱が入らなかった。
 この頃はスペイン語に対する熱が冷めていたのかも知れない。
語学は何年その国に滞在しようと前向きな気持ちがない限り上達しない。新聞を読み辞書を引く事に怠惰になっても暮らしに影響しないが語学能力は確実に後退する。
 後日スペイン語倦怠期を打破するためスペイン語検定試験DELE中級に急遽申し込んだ。一夜漬けとはこの事で1週間仕事の後で食事も作らず勉強に集中した。サンセバスチャン市内の大学で試験は行われた。
 多くの外国人の中で日本人は私のみ。
 結果不合格となった。
内容通知がきて「文書を書く部門で点数不足」と記述されていた。その後スペイン語の勉強もDELEの試験にも興味はなくなった。