スペインで就職を(会社を辞める)

28.会社を辞める
 妻が2002年一度スペインに来てから1年が過ぎた。
東京のスペイン大使館との交渉の結果、妻のビザ交付の準備が整いフランクフルト経由で単身ビルバオ空港にやって来た。
ややこしいフランクフルト空港を乗り継いでよく来たと以前に増して感心した。
丁度その頃、ミラノ見本市に出展する試作品にトラブルがあり休日を返上して仕事に専念していた。勿論夜遅くまで。
 夕食の支度ができたのに帰宅しないと妻は何度も携帯電話をかけてきた。

 一方、会社では組合員と会社幹部との集会が何度も行われていた。
ヨーロッパの軽いインフレとチェコハンガリーEU加盟国に推挙され多くの企業が中央ヨーロッパに進出してスペイン国内に空洞化現象が起こっていた。
会社はもろに被害を受け注文が激減していた。工場の生産を見てもそれを
理解することが出来る。(私は長く他の工場で働いていたため)
 入社当時150人いた従業員は今90人に減りさらに会社を維持できる最低
60人体制まで人を減らすため希望退職者を募る集会が何度となく開かれた。
 希望退職者はなかなか集まらず、いよいよ解雇通告が近づき社員達は皆神
経質になっていた。
私の立場も微妙であった。私は外国人でしかも、最年長従業員であり生産技術という間接的な業務を担当していたからである。
友人の父親が社長である。
私に出来る事があればと考えていた。
今は1人でも社員を減らす事がこの会社を助ける事になる。
 妻がスペインに来るまでに社長に対し自分が身を引く話をした。
「それは必要ない」とあっさり拒絶された。
 その後、解雇された筈の社員が再び工場に帰ってきていた。この地方の同
業種組合の本部に泣きつけば解雇は無効になる。
妻に会社を辞める事を相談した。
 妻は怒りだした。せっかく日本の知合いに別れを告げスペインに来て2ヶ
月そこそこで日本には帰れない。 
その上、冬物、夏物などの衣服も送付してきたのにそれを着る事もなく日本に送り返すのは残念である。
首を縦にはふらなかった。
 それでも妻を何とか説得した。そして解雇された。
会社に勤めて2年4ヶ月。
辞める事は以前から常に頭の隅にあった。可能なら60歳迄は勤めたい気持ちはあったが。
仕事を失う事は労働ビザ更新が不可能となり帰国を意味する事になる。
丁度2003年のクリスマス休暇前で57歳を迎えていた。


29.失業手当
 2004年1月。必要な書類を会社で整えてもらい隣町のスペイン版ハロー
ワークに出向いた。
少し緊張していた。
ハローワークには多くの他の会社の失業者が列を作っていた。
これ程まで不況が深刻化していた事に気付かなかった事を恥じた。
 ハローワークの担当者に不足の書類を指摘され会社との間を2~3回往
復した。
給料の約7割の額が失業手当として8ヶ月間支給される事になった。
1年勤めることで4ヶ月間支給される。
そして仕事の紹介依頼をしたがおそらく無理であろう。
外国人でしかも高齢が問題で、この地方全体に不況が押し寄せ解雇はあっても採用は無理だと思った。
 妻にわびるため失業手当支給期間を利用しヨーロッパ等2人で旅行しよ
うと妻に話していた。その位の蓄えはまだ確保していた。
 それとこの期間を利用し油絵の勉強をやろうとも考えていた。
以前、メンチュウ夫婦と国境の町ホンダリビアを散策途中、画家ハビエル・サガルサスの絵画教室に偶然立ち寄った。
生徒の描く絵の素晴らしさに見入ったことがあり、是非そこで絵を学ぼう
と考えていた。仕事を辞めたら勉強に来ると先生ハビエルに言った事がある。
機会は巡ってきた。
 絵画教室に行く前の1ヶ月間家で四六時中絵を描いた。
1年前に日本に持ち帰った絵に値段が付き妻は日本で絵を売り始めていた。私には信じられぬ事であったがそれは事実であった。