大学そして就職活動

5章 大学そして就職活動
5-1 妻が帰国して
 妻が帰国した7月9日から、次のピソに引っ越すまで10日間の余裕があった。この間、学費節約のため語学学校ラクンサへの復学を延長した。そしてイルンベのピソでは、もっぱら日本への手紙と「スペイン滞在記」を書く事に専念しようと思った。
 ところが、新しい生活を始めてみると、話し相手のいない空間に1人でいる事に気が付いた。今までスペインで経験したホームステイやピソ・コンパルティールでは必ず周囲に人がいた。
 1日中1人で過ごす生活が物書きに都合よく感じたのは、ほんの初めの数日だけ。私のような素人が書く事に興じると、早く終わらせ楽になりたい一心で、近くに即席カフェとタバコさえあれば他の事を犠牲に出来る。結局横着が始まるのだ。昼夜けじめのないパジャマ姿でいる。そのため外出を嫌い、食事の回数を減らし、シャワーさえ面倒に思う怠惰な生活が続く。妻に取り残された男のピソでの一人住まいは、無精そのものであった。生活のリズムが狂い、不安定な気持ちに支配され、スペインを虚しく感じた。今まで経験のないホームシックであった。
 数日経過したある日、うろ覚えの1片の詩を思い出した。
「希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる」
 サミュエル・ウルマンの「青春の詩」である。何が私に影響を与えたのか解らない。だが、「希望ある限り若く」の節は快く響き、口ずさむと気持ちが軽くなった。
  それで充分であった。救われたと思った。
5-2 鍵
 妻がいなくなると、食事、洗濯、掃除とすべて自分の仕事になり、面倒に感じた。特にゴミ出しは忘れがちであった。ゴミはエレベータ前の踊り場に指定時間内に出せば、門番が収集するシステムになっている。その分管理費は高くなるが仕方がない。昨年住んだフェリッペ・クアトロのピソは一般集合住宅なので、ゴミ収集のコンテナーまで自分達で運んでいた。
 スペインのゴミ収集システムは、個人個人が生ごみ、ガラス、紙類などに分別する。道路沿いに設置された約2立方メートルのゴミ回収容器まで運び、緑色、黄色に色分けされたコンテナーに投げ込む事になっている。毎日夜9時を過ぎる頃ゴミ収集車が来て容器を持ち帰る。
 市民は当然ゴミを分別する義務があるが、隣の奥様にはその痕跡が見えない。前の同居人ベロニカは几帳面で、こういった規則はしっかりと守っていた。ごみ回収には1世帯あたり月額600ペセタの市税が徴収されている。
 ある夕方、私は思い出したように2日分のゴミを玄関の外に持ち出した。ゴミ袋を所定の場所に置いた瞬間、半開きだった扉が「バタン」と大きな音をたてて閉まり、ロックされた。
 自分の置かれた立場を理解するのに少し時間がかかった。さあ大変である。私はパジャマ姿で鍵も金も、電話も持っていなかった。
 門番に相談しようと思い、エレベータで地階のホールまで下りたが、日曜日の午後8時では誰もいない。再び8階まで上がり、隣家のインターホンを押したが留守であった。待つしかない。階段に腰かけて30分は待っただろうか。エレベータの扉が開いて隣の奥さんが帰って来た。事情を話して隣のバルコニーをまたいで自分の部屋に渡らせてもらう事にした。
 バルコニーは各階の共通構造物である。白いプラスチック板でベランダの幅、高さ方向を仕切り個人のプライバシーを確保していた。高さ60㎝ぐらいのブロック塀の上に落下防止の鉄製柵が3段、10㎝間隔で取り付けられ横に走っている。私は夕食で少しワインを飲んでおり、ほろ酔い加減であった。
 まず自分のスリッパを隣の自分のバルコニーに放り込んだ後、鉄製枠の上に足をのせた。隣の奥さんは私のズボンの後ろをしっかりと握りながら、
「気をつけて、落ちないで」
と叫ぶ。落ちてたまるか。なにしろ地上9階の高さである。仕切にかける手に汗を感じながら自分のピソに戻った。なんという事はなかったが、後から考えるとぞっとした。
いろいろ話を聞いてみると、スペイン人でさえこういう失態があるらしい。
 一番困るのは鍋をコンロにかけたまま無意識に玄関を出た時だと言う・会社にいるご主人に電話して鍵を持ち帰ってもらうが、鍋は真っ黒、家のなかは煙だらけだったとか。私はまだましな方である。

5-3 引っ越し
  引っ越しの当日、イケルは朝9時過ぎに車でやって来た。空手、剣道で鍛えた
体は私の倍の荷物を軽々と抱え、イルンベから一度の車移動で引っ越しを済ませた。
イルンベのピソはエレベータが利用出来たが、ここにはそれがない。私の部屋は日本流で言えば3階である。引っ越しを終えたイケルの額に薄く汗が光って見えた。
 引っ越し先はサンセバスチャンで一番大きな教会ブエン・パストールの裏側にあった。教会の正面はセントロ地区商店街で、その反対側に中央郵便局とコルド・ミチェリナ中央図書館が並ぶ。さらに私の下宿先のレージェス・カトリコと呼ばれる比較的落ち着いた通りが、150m程の長さで続いていた。
 この地区はサンセバスチャンで準1等地と言われている。パルテ・ビエハ(旧市街)は若者や旅行客が集まる騒々しい地区であるが、ここは地元民が夜を楽しむ家庭的な雰囲気を持った界隈である。準1等地だけあって、何をするにも利便性だけはずば抜けて良い。ブエン・パストールの歴史は築100年程度のもので比較的新しく、この通りに面した建物同様同じ時代に建設された関係からエレベータは設備されていない。
 驚いた事に、スペインの家庭用電源が250Vであるのに対しこの地区は古いシステムの125Vのままであった。幸いにもアルカラで買った小容量変圧器が利用できるので、スペインで買った携帯電話の充電などに利用した。
 

f:id:viejo71:20181116133552j:plain

          レージェス・カトリコ

5-4.ルールデス婦人
 家主ルールデスは47歳の婦人(2か月後に離婚成立)でサンセバスチャンの中堅企業コイペの電話オペレータだ。彼女は毎日仕事に出かけるが、昼食は準備しておいてくれる。私はそれを電子レンジで温めて食べればよいので、都合よく感じた。
 日本人学生の面倒は、私で7人目だと言う。過去、彼女が世話した日本人は非常に運がよく、外国の領事館に就職とか、日本に常駐するスペイン企業に就職が決まるなどしたらしい。ここはツキがある場所だから、私にも
「きっとスペインで就職が決まるでしょう」と言う。
引越し当時、カレンという本当に可憐な19歳のスエーデン人留学生と1年前から下宿している無職の29歳青年フアンマがいた。この4人で暮らす事になる。
 ルールデスはバスク人としては珍しく大げさな態度のサービス旺盛な女性だが、少しやかましく感じた。彼女はこのピソを7年前に買って支払いのため下宿屋をしている。生活に困っていないので食事は良いと自分で言っていた。
 食事は今までと比べるとはるかに良く、毎日ポストレ(デサート)としてバスクのヨーグルトがテーブルに山のように置かれた。
何故と聞くと、
「彼女の母親がスペイン内乱時代の食料不足の苦い経験を忘れるため、豊かな食生活を演出する母親の影響」だと言う。

5-5.大学へ
(1)学校選定
  ルールデスの家での1カ月が過ぎる頃、語学学校に続けていくのか、大学で学ぶべきかを迷ったが全て価格で決まると思い直おした。サンセバスチャンはピソの家賃を含み全ての物価がスペインで1番高いと言われている。御多分にもれずラクンサの授業料も高い。大学とラクンサで9月から来年の5月までの授業料の相見積もりを取ってみた。
大学   42万ペセタ
ラクンサ 55万ペセタ
ラクンサに値引き交渉をしたが、校長には会えず、結局大学の授業料を前納した。
サンセバスチャンでどちらを選ぶか、日本人には2通りの考え方があるらしい。
 大学は価格的に安く思われるが、休みが多いので語学を短期に真剣に学ぼうとする学生にとっては不効率である。大学はアメリカ人のために開かれたコースで、20歳前後の子供のような学生にまじり授業を受けるのでそれに耐えられるかも問題である。
 一方、大学をスペイン滞在のための税金との考え方もある。生活を楽しみながら語学を学ぶのであれば、授業料は安く、休みは多いほうがよい。自分の場合、後者に匹敵する。それにラクンサの授業にはうんざりしていた。一部の教師を除き質が高いとは言えない。
 一度若いスペイン人男性教師に日本人を差別する発言があったので首をつかみ暴力事件発生の手前まで行った事がある。私は初めての大学に期待を持った。
9月中旬、スエーデン人のカレンが祖国に帰った。代わりにアメリカ・ネバダ州からハイディが来た。ハイディは長身でやせ型、長い金髪をした控えめのアメリカ美人だ。彼女はスペイン語を2年ほど習っていた。
(2)大学オリエンテーション
 9月10日に大学で秋季コースのオリエンテーションがあると聞いた。その日、大学に行くと、200名の若いアメリカ人達で講堂は溢れていた。
 デレクトーラのパトリシアは、2時間にも及ぶ説明を英語で始めた。スペインに来たお客様へのサービスなのだろうと納得したが、彼女はアメリカ人だと聞いた。英語がうまいはずだ。
 パトリシアの独演が終わると、アメリカの大学生以外には試験が課せられた。私は語学学校でも度重なる試験を受けており、成績は別にして試験には慣れている。
 試験の答案用紙を配る人の仲にネカネの姿を見た。
 「ここで何をしているの」
 「あなたは4クラス中、下から2番目よ」
と言っていたが、結果は正解率70%で上から2番目のクラスになった。
 どこへ行ってもそうだが、オリエンテーションで集まった中で一人おじさん東洋人であった。「あなたは教師ですか」と質問された事もある。
ネカネと会ったのはこれが最後であった。主人パコを残し肺がんで亡くなった。
5-6.大学前期
 大学のキャンパスは、セントロ地区から約5キロ山中に入ったアンティグオという地域にあり、ほとんどの生徒はバスで通う。バス賃は区間1律で、昨年は110ペセタであったが今年は150ペセタに値上がりした。回数券を買うと75ペセタになる。信用金庫クッチャで口座を開き、カードを作る。これをバス乗り口横に置かれた自動改札機を通して乗車する。便利も効率もよいため乗客も多い。当時の日本バスシステムはこれほど進んではいなかったと思う。
 バスは2両連結車と単車があり、混雑時は2両連結車が走る。乗り口は1か所、降り口は単車でも2か所、連結車は3か所で客の乗り降りの停車時間を短くする考慮がある。バスは低床式で、車椅子や幼児用の押し車が楽に乗れるよう工夫がなされている。車椅子の乗り降りには降り口下部から補助板が出て、さらに片側の空気バネの圧力を抜き車体を傾け自力で車椅子ごと乗車出来る。
 このバスに乗ってコンチャ湾を横目に見ながら15分程で大学に到着する。大学では精神医学部の教室をかりて授業を受ける。
私は文法と会話を選択しており、午後1時半から4時半の間が授業である。他にも科目を選択できるが、前の語学学校並みに2科目に絞った。
 クラスは6人の生徒構成である。アメリカ人学生たちは同じクラスに所属するとは言え、各人のスペイン語能力は歴然と違っていた。大学の秋季と春季を連続して受ける生徒は上から2番目のクラスに編入し、最終的に最上級クラスで終了するように仕組まれていると思った。授業の内容は語学学校でいえば中級の中程度の内容だ。特に真新しい事を習うという感じはなく、宿題を除けばハードな勉強は必要なかった。
授業の前後の時間には、仕事の準備として「機械設計便覧(スペイン語訳)」の技術用語を勉強し始めた。午前中は授業がないので図書館を活用した。
5-7.イケル日本へ出発
 イケルの日本出発は9月20日と聞いていた。その前日に50キロ離れたデバ村からわざわざ挨拶に来てくれた。スペイン人にしては非常に珍しい律儀な青年である。
 出発の3カ月前にイケルの友人のイバイが日本に出発していた。
 その点イケルは心丈夫であったと思うが、相変わらず日本でのアパートは未決定
であった。イケルはもちろん、彼の両親も心配であったろう。東京で外国人がアパート探しをするには保証人問題、為替差額の問題があった。この時期はユーロの価値が大幅に落ち込み、連動してペセタも価値を失い、180ペセタが100円まで落ち込んでいた。
イケルの心配をよそに妻は日本でイケルのアパートを探していた。それを私は全く知らなかった。
 イケルが挨拶に来たその夜、妻から電話があった。
「イケルのアパートが見つかったわ、お父さんが保証人になる条件で」
「いくらなんだ」
「2万4千円」
 私はすぐイケルの家に電話を入れアパートの件を伝えた。
「ありがとう、今度は貴方のために何かをしたい。父の会社にすぐ履歴書を送って下さい。父に頼んでおきます」
「アパートの件は妻がした事、それと私の仕事とは別だよ」
こんな会話を交わした翌日、イケルは憧れの日本にビルバオ空港から出発した。