[スペインで就職を」回想録 サンセバスチャン留学・学生ビザ、生活費予算

3-7 学生ビザ
 言うまでもなくスペインに3か月以上滞在する時はビザが必要である。私には学生ビザの携帯が求められている。サンセバスチャンに引っ越した直後、当地の警察に出頭してアルカラの警察で聞いた事を話した。
ところが、結果は意外であった。
「アルカラで申請した事はアルカラで処理するように」
 アルカラで聞いたのと随分話が違う。困った。マイコに相談した結果、一度マドリドに行き聞くのが良かろうと言う事になった。アルカラの警察は申請のみ扱い受取りはマドリドの警察でしか扱わない事もはじめて知った。お粗末である。
 マドリドの警察の所在地や地図をマイコに書いてもらい準備は整った。しかも警察に行った時、何故事は早急に進まないのか、まず怒りを前面に出すようにと忠告までもらった。
3-8 マドリドへ
 夜行バスは便利で経済的である。列車では往復3日を要するがバスであれば日帰りが出来る。マドリドには予定通り火曜日朝の6時半に到着した。まだ夜明け前で薄暗く、バスターミナルで洗面をすませ7時頃動き始めた。10分ほど歩いて地下鉄クアトロ・デ・カミーノに着き、2番線で乗車しセビジャー駅で降りた。5分ほど歩くとアルカラ通りの裏側に、マイコから聞いていた警察署を見つけた。
 近くのバルで朝食を済ませ、再び警察署まで行くと、100人ほどのビザ申請者の行列が出来ていた。多くは中南米人と思われる。皆スペイン語がうまい。受付開始までまだ1時間ある。夜行バス旅行後1時間立って待つのは身に堪える。
 列の中に1人の若い日本人青年を見つけ話しかけた。山口県出身で20才。私同様にビザでトラブリすでに10回ほどこの警察に来ていた。それでもまだ学生ビザの取得ができず、スペインに勉強に来たのかビザを取りに来たのか解らないと嘆いていた。やがて9時になり係員から整理券をもらって地階に下りる。
天井の番号指示器は整理券番号を示している。事務室は腰壁から上部をガラスにより仕切られていた。待合室からの視界を遮るため内側には白紙で遮蔽してある。日本人青年はその白紙をめくりわずかな隙間から中を覗き込んだ。
「今日は大丈夫です。気難しい、提出資料に難癖をつける女性係官はいませんから」
 彼は海外保険の件でその女性係官からクレームをつけられたらしい。
 私の番が来た。事務室には3つの対応机があり、比較的若い女性係官の前に腰かけた。用意していたスペイン語で一気に喋った。
 「半年前に学生ビザの申請をしたが、何の連絡もないので質問に来ました」
 担当の係官は話半ばで、私の申請書の控えからコンピュータに向かいインプットを終え
 「昨日、警察に来るよう、貴方の住所に手紙を出しました」
 とさらりと言った。その手紙にこれからすることが書かれているので、それを持って1ヶ月以内に再びマドリドの警察へ出頭する様に指示された。話が出来すぎている。マイコから教わった、怒るまでの必要はなかった。私の書類は有効であった。
手続きが長引くと無断で廃棄されることもあるらしい。
 3-9生活費予算
サンセバスチャンの生活が始まって1カ月を過ぎる頃、帰国までの生活費の予算を組んだ。アルカラでは、スペイン到着と同時に生活費と授業料を学校に収めたので、生活費の概念はなかった。それに最初は海外生活の珍しさもあり、あまり金の事は考えずに半年を過ごした。現在は食費、家賃、交際費とすべて自分で意識的に仕切る必要がある。はじめの1カ月間は家計簿をつけてデータを収集した。
 家賃 33000ペセタ
 食費 15000
 外食 5000
 旅行 12000   (マドリド警察へ7500pst)
 絵画 10000
 その他 15000  (電話5000pst、タバコ10000pst)
 計  90000ペセタ  (散髪代 1900pst含む)
自分でお金を貯めてスペインに来た女性は月に4万から5万ペセタで1カ月を乗り切る。金額で言うと私は結構贅沢な生活をしているらしい。当時100pstは70円の価値なので1カ月を6万円程度で生活することになる。
 3-10 夏季の学校ラクンサ 
 ラクンサは外国人専門のスペイン語学校で、サンセバスチャンでは独占的な立場にある。7月からは、授業料も授業時間も3割アップの夏体制に入る。この時期は各国から多くの生徒を受け入れるため、生徒数は200名にも膨れ上がる。まさにラクンサのかけいれ時である。
 ラクンサに来る生徒の大多数はスエーデン人である。年齢に関係なく、海外留学に国の奨学金が使え、試験に合格すれば学費の8割が返還されるらしい。ラクンサはこの奨学金制度を考慮して、スエーデン人に対する熱の入れようは相当なものである。
 生活費はスエーデンの高い物価から考えると格安で、その上EU関係の特典により働く事も出来る。そのために多くの学生が給仕などのアルバイトをしていた。
 多くのスエーデン人学生は、アメリカ人が舌をまくほど、流暢な英語を話す。
その理由を尋ねてみると、スエーデンでは10歳から英語教育が始まり、テレビで英語放送が1チャンネル流れている、との答えが返ってきた。彼らのスペイン語の発音もきれいである。こうした若者達を見ていると、国際性という観点からスエーデンを末恐ろしく感じる。
 この時期サンセバスチャンのホテルやペンションは一斉に価格が上がり、予約なしでは宿泊は不可能である。街の人口20万人に対し、夏は50万人まで増えるとのこと。ラクンサが儲けようとするのは自然の理である。ただ問題があるとすれば、生徒数に見合う教師を臨時で雇うため、その質が低下する事であろう。
 3-11 風邪
 夏のサンセバスチャンは日中の気温が30度を少し下回り、湿度も低く過ごしやすい。だが、それでも時々36~38度と狂った温度になる事がある。その翌日は大抵嵐で雷と共に大雨が降り温度が下がる。アフリカからの南風が影響するらしい。
 そんな暑い日の夜の事、寝苦しさのあまり中庭に面した窓を開けて寝ていた。翌日の月曜日、いつもの起床時間にベッドから起き上がれない。体が重く、熱もあるようだ。学校に行くのを諦めた。暑さのせいか熱のせいか午後には悪寒を感じ始めた。仕事から帰宅したベロニカが私の不調に気付いた。「食事はしたの?」と心配してくれるが、食欲など全くない。ベロニカは希望したバナナと少しの果物を買ってきてくれた。
 夜には下痢をともなった。ベロニカも私も体温計を持っておらず熱がどれくらいあるのか解らない。それでも医者に診てもらおうとは思わなかった。アルカラで医師にかかったが大した処置は期待できないと思っていた。まあ死ぬ事もあるまいと高を括くっていた。
 しかしこの症状は1週間も続いた。心配そうな顔をして同居人アルバロも部屋を覗いてくれた。普段やかましいステレオのボリュームもこの時ばかりは極端に下げていた。下痢と熱の1週間で食欲もなく相当に体力を失った。まだ下痢の続く金曜日、無理を押して学校に出かけた。教師ロサは「顔色が悪い、大丈夫」と心配していた。
 週明けの月曜日、まだ下痢も治らず、体力が回復しない状態であったが、学生ビザの取得のため、夜行バスでマドリドへ向かった。ビザ申請期間の8月末が1ヶ月延長され9月末になっていた。ビザを申請してからちょうど半年後のことであった。
 翌日、サンセバスチャンの警察に行き、10月末迄のビザ延長申請書を提出した。だが国家警察の女性職員は、帰国までのビザ取得は無理であると言っていた。とにかく、サンセバスチャンに移ってから1ヶ月半余、通算4回のマドリド往復で、ようやく合法的な手続きを終えた。