「スペインで就職を」回想録 サンセバスチャン留学

3-12 サッカー
 夏休みの絵画教室は、共稼ぎの主婦が保育園代わりに預ける子供達や、宿題の作品を手かける小学校低学年の児童が多い。狭い教室の中を走り回るため落ち着いて絵が描けない。午後6時半以降に子供達は帰り、かわりに勤め帰りの主婦が来る。
 その中にバスク語でメンチュウ(スペイン語ではカルメン)という婦人がいた。彼女は弟が日本に旅行した事もあり日本に興味を持っているとよく話しかけてきた。メンチュウも彼女の夫も私と同じ年齢で、2人の男子も私の息子達と同年齢だった。
 メンチュウが絵画教室を終わる頃、夫のホセ・マリアが迎えに来て車で帰る仲の良い夫婦である。ある日の絵画教室の帰り道、立ち話でホセ・マリアからサッカーの話を聞いた。この家族は相当のサッカーフアンでスペインのサッカー事情やの地元チームの事を説明してくれた。
 サンセバスチャンにはレアル・ソシエダと言うスペイン・サッカー1部リーグのチームがある。過去にスペイン1部リーグを2度、国王盃を1度制したらしい。
この街をはじめ近隣に住む住民すべてがこのチームのサポーターで「我が街のチーム」という事。だが田舎チームのため先立つものが充分でなく、実力者を集めるのが難しいらしい。日本のプロ野球でいえば広島カープ的存在であろう。
 レアル・ソシエダのホームサッカー場は私の住むフェリッペ・クアトロから徒歩で5分の場所にある。8月中旬レアル・ソシエダとアテュレチック・マドリドの試合のポスターが街の至る所に掲示されていた。一度試合を観戦したいのでどこで前売り券を買えばよいかメンチュウに聞いてみると、
「その試合は危険なので気をつけなさい」
と言う。理由は
「半年前、マドリドでの同一カードで、バスク青年が相手チームのサポーターに殺された事件があった。以来初めてのサンセバスチャンでの試合なので何が起きるか解らない」
との事だった。

 

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          アノエタサッカー場
 数日後絵を描いているとメンチュウから電話があった。
「明日午後8時から例の試合を一緒に見にいかない?入場券があるの」
と誘われ勿論了解をした。
 サッカー・アノエタスタジアムの11番ゲートで午後7時半に待合せの約束をしていた。メンチュウ夫婦は道路面より1段高くなったゲート前の通路で私を待っていた。雑踏の中で私を見つけ手を振った。サッカー場の周りは大勢の人で賑わっている。レアル・ソシエダのネイビーブルーと白の縦縞のユニホームを着た多くのサポーターも開門を待ちわびていた。
 メンチュー達は年間の入場券を購入していて彼女の弟分を回してくれたのだ。
ここでオープン戦を1度見た事はあるが、リーグ戦をしかもナイターで観戦するのは初めてだ。アノエタは約3万人を収容でき雨の多い土地柄全席屋根付きの球場である。
  メンチュウ夫婦に従い指定席に行く。夫婦の友人や親戚の人達で回りの席は占有されておりレアルを応援する約束をした。
 試合開始に先立ち、先にマドリドで死亡した青年に黙祷を捧げる事になっており、場内アナウンスで全員起立して1分間の黙祷に入った。しかし審判はそれを知らなかった。試合はすでに始まってしまった。メンチュウは失礼だと怒っていた。
試合は前半を終了して3対0でリード。20分間の休憩を利用して皆持参した革袋のワインやボカリージョ(弁当)を食べる。球場の売店ではアルコールは販売されない。缶ジュースやコーラもしかり。
 試合前に聞いていたような過激サポーターの衝突はまだ起きていない。
その理由はこの試合の入場券をマドリドで販売しなかったからだそうだ。だが反対側のスタンドにはアテュレチック・マドリドの大きな垂れ幕が見え少数のサポーターが来ている事を示していた。後半戦が始まるとそのスタンド側で煙幕が焚かれた。結局レアルは4対0で勝利した。
レアル・マドリドとレアル・ソシエダは友好的だと聞いた。
3-13 シドレリア
 9月に入ると、サンセバスチャンへの外国人観光客が姿を消すかわりに、国内の年金者たち、つまりお年寄りが多く集まってくる。
その理由は、9月も中旬になると、ホテルやペンションの料金がもとに戻り安くなるからである。ラクンサもしかり。9月のサンセバスチャンは、1年の内で一番過ごしやすい季節とも言われる。まだ、コンチャ湾の浜辺で多くの人達が水浴びを楽しんでいる。しかし日本と同じようにクラゲが出現するらしい。
 ミワが日本に一時帰国するためインテルカンビオの面々が顔を揃える事になった。イケルの尽力で、あるシドレリアでの送別会に決まった。
シドレリアとは、シドラと言うリンゴ酒の大樽を横に倒して並べ、飲放題で安価で美味い牛肉を食べさせる簡易レストランである。
 サンセバスチャンの中心から車で30分ほど走った山中の牧場に降りた。
懐かしい牛糞の匂いが風に乗ってあたりを包む。その駐車場に面した古ぼけた建物がシドレリアであった。スペイン人と日本人総勢20人前後の宴会である。
皆30才前後の若者のなかに一人おっさんが混じっているが、自分の年を忘れシドラを飲み肉を食べている。そのうちスペイン人の家族の集団が隣のテーブルを埋め尽くした。
 シドレリアはレストランと言うよりは、土間に簡単なテーブルと木製の椅子を並べただけの素朴で安価な「休憩所」と言った方がよく似合う。その大きな部屋の片隅に直径3メートルばかりの大樽がならんでいる。下部に栓があり、めいめいがその栓の下に目見当でコップを配置しシドラの描く放物線下で受ける。
理由はシドラが蒸留酒でないためポルボという粉状のものを拡散するためだそうだ。バルでも瓶入りのシドラは瓶を頭の高さに構えてから50㎝程離し器用にコップに移し替える。
 腹いっぱい食べて思い切り飲んで3000ペセタを払った。外に出るとまた牛糞の匂いが漂った。
3-14日本人青年
 9月は大した事件もなく、スペイン語の勉強にもあまり情熱のわかない日々であった。絵画教室ドン・ピンセルで絵を描く事が唯一の楽しみであり、それを日課として過ごしていた。この頃はスペインの印象派画家ソロージャという、海岸のバスタオルで赤子を抱えた母親の絵に挑戦していた。模写とは言え人物を描くのは非常に難しく、悪戦苦闘の日々を送っていた。ソロージャはスペインの巨匠ゴヤピカソの間の時代で活躍した印象派画家である。
「光のマエストロ」と言われるほど夏の浜辺の強い光を白い服で受け止めた絵を多く描いている。マドリドの私邸を改造した美術館を1度だけ訪れた事がある。
モネの「川岸で日除け傘をさして白い服を風にたなびかせる婦人」の絵によく似た絵を描いた画家である。
 9月の下旬になると、サンセバスチャンでも幾分涼しさが増す。シャツも半袖から長袖に衣替えをする時期だ。日本に帰国のため10月21日の切符を予約した。
 その頃、学校近くのバルである日本人男性に出会った。夏にラクンサにいた慶応大4年生の男子である。彼は短パンにサンダルという少し季節外れの恰好をしている。話を聞くと
ラクンサを終えて、友達のピソに荷物を預けモロッコポルトガルへの旅に出た。モロッコの旅の途中、カナダ人青年と知り合い旅を続けていたが、ある夜、ペンションでそのカナダ人と言い争った。
翌朝目覚めると、自分のリュックをはじめ靴,服などすべてが消えていた。
ロッコを旅する日本人に事情を話してお金を借りた。日本大使館でパスポートの再発行をしてもらいサンセバスチャンに荷物を取りに帰って来た」
 と言う。気の毒になりその日の夕食を馳走した。
彼は商社マンの父親を持ち、少年時代をイタリアで過ごしたが、成人後イタリア語が話せずイタリアに語学留学したらしい。すでに日本の大手保険会社に就職が決まっていた。語学留学する日本人の多くは女性であるが、男性はめずらしい。
 その帰り道、若い美人のスペイン人から話しかけられた。よく見ると、いつも行く銀行のお譲さんだ。
 「今日で銀行をやめました」
 その理由を聞くと
 「そういう契約で仕事を始めたので。明日からビルバオに仕事を探しに行きます」
 と答えた。スペインでは若者が常勤の就職する事は難しいらしい。夏になると多
くの人が休暇をとるので、若者にはこの時期のみ労働市場が解放されると聞く。
 イケルの友人セルヒオは介護士をしている。同じような事情で夏のみ仕事が出来ると言っていたのを思い出した。サンセバスチャンの失業率は15%。