妻とのスペイン3か月滞在(サンセバスチャン)

4章 妻とのスペイン3か月滞在
4-1.再びサンセバスチャン
「あ、海が見える」
 機内の小さな、窓から下界を見入っていた妻がつぶやいた。妻にとっては、初めて見るかわいい町ビアリッツなのだろう。どんよりした空の下、大西洋の海岸線を北にして、緑濃い田園風景が広がっている。その中に、赤い屋根と白い壁の家々が散三と並び、次第にその姿を大きくしていく。すべてが別荘なのか広い芝の庭の片隅に建つ2階建ての家々は、生活のゆとりを感じさせる。その様子は今日からスペインで3カ月の外国生活を送る妻の緊張感を和らげたのかもしれない。
 対照的に私は高まる緊張感を感じていた。まだスペインで仕事の見通しさえたたない身である。昨年10月末帰国後、離れすぎた仕事の勘を取り戻すためその準備にあてた。退職後の時間の経過は早く、すでに53歳を迎えている。就職活動にも影響を与える限界年齢に近づきつつある。もしかすると、これが最後のスペイン滞在になるかも知れない。…そこで妻にも海外生活を経験させておこうと思った。
 妻の3カ月間のスペイン滞在は、背水の陣と先行投資のはざまにある。妻の帰国後3年がリミットでそれでだめなら諦める覚悟である。
 今回は関空を2000年4月15日11時55分に出発後、パリ経由で合計16時間の比較的短い旅でビアリッツ空港に到着した。空港出口にはマイコとイケルが出迎えてくれていた。マイコにビアリッツ到着時間を知らせていたが、まさか迎えにくるとは思っていなかった。妻にイケルとマイコを紹介後イケルの車でサンセバスチャンに向かった。
 マイコからセマナ・サンタが来週から始まるのでホテルやペンションは簡単には探せないよと言われた。2軒のホテルにあたり少し高いホテル・NIZAに2~3日の宿泊を決めた。
  

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           ホテルNIZA からの景色
4-2 ピソ探し
 翌日イケルの住むデバ村に日本人留学生ミワ、なつみ、彼女の恋人イバイ、ウナイ、セルヒオ達と昼食会を持った。妻は日本人や日本語の話せるスペイン人に囲まれご満悦のようであり、2回目のスペイン旅行のせいか、時差による疲れを見せない。
 到着の3日後、早速アパート探しに出かけた。昨年の経験から、不動産屋アルダバに相談するが、8万ペセタのピソを探す。
 「家主は皆セマナ・サンタで旅行に出かけていない。1~2週間は帰ってこない。」
と言う。悪い時期に来たものだ。ホテル・NIZAは1泊1万5000ペセタの宿代が必要で食費もかかる。語学学校ラクンサに頼るしかないと思った。
 学校のピソは管理費が上乗せされ割高であるが、そうも言っておられない。早速学校に向かい、校長ファン・カルロスにピソを掛け合った。
 「ピソはあるが今値上がりしているので月額10万ペセタはする」
 「貧乏しているので安くしてほしい」
 結局家賃は9万ペセタに落ち着き、実際にピソを見てから決めることになった。
 そのピソはイルンベ9番地にあり、サッカー場アノエタが見える通りに面していた。 かなり広い玄関ホールの奥に、門番用の大きなデスクが置かれていた。
隣接する壁から廊下がエレベータ乗り場に続き。その奥に非常階段が見えた。
 ピソは8階と聞いていた。9階の部屋で暑さ・寒さが緩衝され景色がよいことから8階は最高の居住空間と言われている。8階でエレベータを降りると、広い踊り場があった。非常階段の両側にそれぞれ3軒の玄関があり北側の中央が紹介されたピソである。早速ブザーを鳴らすと老婦人が顔を出し中に通された。
 玄関から奥に見える大型窓の内側で、レースのカーテンが風に揺れ、窓越しにバルコーニが見えた。部屋はバルコニーに向かって右手にサロン左手に寝室と単純なレイアウトである。玄関ホール左側に浴室、右側にキッチンがあり、その壁にはセントラル・ヒーティングの制御パネルが見えた。即座に婦人に了解の回答を出した。
 翌日ホテル・NIZAからイルンベに引っ越した。 
4-3 ラクンサ入校
 イルンベに引っ越しの翌日、妻と2人でラクンサに出向いた。妻は入門クラスで生徒1人、ラウラと言う少し太めの独身できさくな女先生。私は筆記・口頭試験の結果インテルメディオのクラスに振り分けられた。クラスには珍しく若い日本人女性がいた。トモカと言う19歳の女子大生で現在カナダに留学しながらドイツの大学を経由してスペインに来たという複雑な生徒である。
 他は腕に入れ墨をした2人のスエーデン人男子学生がいた。隣の席には同い年のムッシュ・ジャン・クローがいた。彼はアルミ精錬の技師で、現在スペインの会社でコンサルタントをしながらスペイン語を学んでいる。来年にはブラジルに渡り妻を娶って余生を楽しく送りたいと言うが、ブラジルはポルトガル語のはず。
 アメリカから来た30歳のジェファニーというOLもいた。彼女は東京やロンドンで仕事をした経験がある。医師の恋人を頼って来たが、居住ビザ取得に大量の資料を提出したらしい。
 このように今回のクラスは社会人が多く落ち着いた授業が期待出来そうである。
 その翌日、4月15日から6月末まで授業料を支払った。夫婦二人で29万2千ペセタである。この金額は2人分のデポシト5万ペセタを差し引いた金額である。
生活費と異なり学費は相当の負担になる。この当時は円が強く100ペセタは60円。  4-4 サンセバスチャンの生活
 朝7時半に起床、シャワーを浴び簡単な食事をすませ、8時半に家を出る。
家から30分かけて学校まで歩く。バスもあるが学生たちは利用しない。途中たばこ屋で、妻のいやな顔をしり目にタバコを買う毎日だ。
イケルの通うバスク大学工学部の校舎の前を通る。多くの学生達が授業前のお喋りで過ごしている。工学部にしては女子学生が多い。大学を過ぎると私には縁深いホテル・アマラが姿を現す。その横に長距離バスの停留所がある。
 木立の多いアマラ公園の横の歩道を歩く。
 大体この辺りで、足早に歩くフランス人ジャン・クローに追いつく。こうして9時前には、街のセントロ地区にある学校に到着する。
 学校の授業は12時半に終わり、同じ道を夫婦で歩いて帰る。
 1週間に1~2度帰宅途中にイルンベ地区のスーパー・アルコで買物をする。昼食は2時頃にすませ、一休みして夫婦で勉強にかかる。スペインではシェスタと呼ばれる昼寝の習慣があるが、これは暑くて昼間に労働のできない南部スペイン中心の文化であり、サンセバスチャンでは聞かれない。企業の昼休みはおおむね1時間で夕食は午後8時頃に済ませる。
 日本から250ボルト用の3号炊きの炊飯器を持参しているが、これは重宝である。スーパーで1キロ100ペセタ(60円)の紙袋入りの米が買える。しかもタイ米のような長い米ではない。コシヒカリには程遠いがまずまずの味がする。
 日本から味噌と味付けのりを持参している。私にとって味噌汁、のり、卵焼きがあるだけでごちそうである。これにハム、赤玉ネギ、レタスで野菜サラダでも作れば大ごちそうになる。欲を言えば豆腐があれば最高である。
 スペインではどこのスーパーでも、鮮魚売り場には整理券発行器が置かれ、それを取って他の買い物をしながら店内放送の呼出しを待つ。それでも順番のトラブルが起きる。大声でけんかする婦人を見ると隣の奥さんだった事もある。
 魚はタイ、サケ、カレー、イカカニ、エビ、貝など日本と変わらない。車えびのゆでたものは300gで400ペセタと安くて手間が省ける。魚屋は白い帽子に上下の白い作業委を着て、黒いゴム前掛けをつけ、威勢のよく客に対応する。
 2枚に下ろすのかぶつ切にするのか魚の処置を聞く。うろこは歯ブラシの2倍にした大きさのワイヤブラシで手早く落とし、ひれは、ハサミであっさりと切り落とす。天井からぶら下がった清掃用ゴムホースで魚を水洗いし、出刃包丁で2枚におろす。価格はよく解らないがアサリはムール貝に比べると圧倒的高い。
 またスペインではカキを除き生魚は絶対に食べない。サンセバスチャン近海でとれた生きの良い魚でも、妻は臭いと言う。瀬戸内海沿岸に住む我々は、こと魚に対して厳しい目を持っているのだろう。
 4-5 妻の勉強
 学校に入って1カ月が過ぎた頃、妻が授業に苦しみ始めた。この頃、妻はエレメンタリーのクラスに上がった。生徒数も増え、それまでの個人レッスンから普通のクラスに変わっていた。
 クラスに新しい若い外国人が来てからペースが狂いだした。その外国人は文法を知らなくても会話が出来る。その上、スペイン語の熟達度が非常に早く、妻一人が取り残されるような悲哀を感じたらしい。習った言葉が完全に吸収・消化出来ないうちに、次から次へと新しい単語や動詞の変化が現れる。経験上、パニックに陥るにちがいない。しかもこの頃はまだ現在形、現在完了形のみの動詞活用。山に例えればまだ1合目のレベルであった。
 日本語で習うのではなくスペイン語によりスペイン語を習うのは並み大抵ではない。
「そんな、無理をする事はない」
と妻を慰めた。外国人からも同情されたり、助けられるらしいが幾ら慰められてもためにならない。頑張り屋で負けず嫌いの妻はさらに勉強に励んだ。
 やがて妻は何を考えたのか、先生ラウラに日本語を教え始めた。日本の知人から小学1年生の国語の教科書をもらい持参しアイウエオから教え始めた。
 妻は週末をも犠牲にしてスペイン語の予習・復習に時間を費やした。散歩好きなスペイン人にあやかって妻を散歩に誘っても、勉強を理由に首を縦に振らなかった。しかしその努力の甲斐もなく、妻は6月最後の週に登校拒否を起こした。確か過去形動詞活用の最後の授業だった。
「最後だから頑張れ」
と説得したが、あと2日を残して学校を止めた。頑張り屋の妻の限界だった。
 日本で何も予習的勉強をして来なかった妻には大変な苦労だったと思う。
だが日本の地方でスペイン語を学ぶ学校や機会が乏しいことは確かである。  


4-6 アパート探し 
 イルンベのピソに住んで1ヶ月が過ぎる5月中旬ごろから、妻が帰国後に自分1人が住むためのもっと安いピソを探し始めた。新聞のピソの広告を頼りに電話をかけるが、家主の多くは不在であった。そこで、ピソ探しはなつみの恋人のイバイに頼むことにした。予算は月額8万ペセタである。イバイはやってはくれるが「日本人はだめ」と言われる事が多くついにギブアップした。
 6月初めの午後、以前利用した不動産屋アルダバに出向き、ピソ探しを依頼した。そこで解らない単語「ソルベンシア」に悩んだ。辞書を持ち合わせていなかったため、担当の女性と妙な問答を繰り返していた。そこへ偶然イケルから携帯に電話がかかった。 イケルの助けでそれが「支払い能力」の意味であることが解った。つまり1年の長期借用には「無職」が障害となる。スペインでの預金残高の話をしても無駄であった。
 担当の女性は代案を提案した。ピソ・コンパルティル(ルーム・シェア)である。
 家賃は3食、掃除、洗濯込みで月額7万5千ペセタだから経済的だと言う。
 住所は大聖堂ブエン・パストールの裏でレジェス・カトリコ通りにあった。不動産屋の窓から見えた。緑色の古い玄関がそのピソの入口である。
 翌日妻と共に、ピソを見に行った。ピソは地上3階にあるがエレベータはない。薄暗い階段を上ると、家主が扉を開けて待っていた。
家主はルールデスと言う中年女性だ。彼女は以前6人の日本人学生を世話した事があると言い、その内に私と同じ広島の女性もいたと付け加えた。ルールデスはお喋り好きで大げさな女性に思えた。
 洗濯物干場の中庭空間に通じる6畳程度の部屋が紹介された物件である。
室内には机と整理ダンスがあり、反対の壁側にはベッドと2つの小さな洋服ダンスが置かれその上部を連絡するように本棚が設けられていた。部屋のすべての家具は薄い黄土色の木目調で統一されていた。今までのスペインの生活で一番小さい部屋に思えた。イルンベのピソから考えるとたいそう窮屈だ。
家主に少し考えさしてほしいと申し出たが、妻は
「ここにしたら」
と無責任に言った。
 私の計算では1万ペセタ程高く思えたが、個人でピソを借りるより経済的である事は確かで、街の中心にある地の利を考えて決心がついた。
4-7 パリへ そして見送り
 今まで世話になったスペイン人に妻は日本の家庭料理を馳走した。
 わたしの引っ越し先も決まり、一安心後、スペイン語の勉強だけに明け暮れた妻の慰労と見送りを兼ね贅沢ではあるがパリ観光する事に決めた。妻はイルンベのピソを掃除しながら、私が最終的にピソを引っ越す時のため、あれこれ注意をした。
 7月6日朝7時にイルンベを出発した。歩いて5分そこそこのアノエタ駅へ妻のトランクをごろごろ押して15分かけて着いた。各駅停車のエウスコ・テュレンでフランスのエンダイヤまで単線でゆっくり走行し40分ほどかかった。
 フランス国鉄SNCFのエンダイヤ駅まで歩き、ホームに出た。まだ30分ほど余裕があるが何もやる事がない。TGVでパリに向かう人達が集まり始め、やがて流線形をしたツートン・カラーのTGV列車が機関車を先頭に到着した。
 エンダイヤからビアリッツ辺りまでは各駅停車のTGVで速度を上げない。
だがそれを過ぎるとぐんぐん加速する。フランスが誇る新幹線TGVを感じた。
 車窓にはフランスが農業国である事を物語るような、麦畑やぶどう畑の田園風景が広がる。パリ南駅・モンパルナスには7月6日午後5時過ぎに到着した。
 パリ市内観光、ルーブル美術館巡り、ベルサイユ宮殿、オルセー美術館と3日間をゆっくり過ごした。
 いよいよ妻をドゴール空港まで送って行く日7月9日が来た。妻の乗る飛行機は13時15分ドゴール空港発なので、その2時間前にチェックインが必要となる。ホテルから空港までタクシーで50分と聞いたので、ホテルへ10時にタクシーを呼んだ。タクシーはリヨン駅、ナシオン広場を通り、パリ外周高速道を走って空港へ着いた。
 チェックインを済ませた後、妻を前に軽い食事をした。2人で何の話をしたか覚えていないが、おそらく子供達の事だったのか。今は妻が無事に飛行機に乗る事だけが心配であった。離陸1時間前にパスポート・コントロールまで送り出した。
 妻の姿は頼りなく見えたが、初めて子供を海外に送り出す親の気持ちであった。
 今回の妻との3カ月間のスペイン滞在は、結局のところスペイン語の苦しい勉強とケチケチ生活に他かならない。妻は私の貧乏生活を見て哀れに思ったのか、安心したのか解らない。年齢に関係なく日本人留学生は皆苦学を強いられており、自分もその一人である。そして妻もその体験をしたにすぎない。
 先行きの見通しが持てない私からの朗報を妻は日本で働きながら待つ。無責任で厚顔な私でも自分の立場は解る。自分が作りだした波に自分自身が翻弄されている姿はおかしい。しかし妻流に言えば「セラビ」である。「何とかなるさ」である。それに自分流の努力を重ねるしかない。
 バルコニーに出て、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。8階から見える家々の灯りが一つまた一つと消えて行く。