半年の語学留学を終え帰国する。

3-15 ネカネ
 ネカネはバスク語の名前でスペイン語ではローラと言う。彼女はレストラン・カサ・ニコラサの主人ホセの姉で、今はもう58才のセニョーラである。
28年前ベアサインに出張で宿泊していた時、私にスペイン語の会話の初歩を教えてくれた女性であった。
 ホセにネカネの所在を何度か聞いたが忙しい人でサンセバスチャンを不在にしていた。帰国までに一度会っておきたいとホセの奥さんのアナ・マリアに電話番号を聞き電話した。28年いや29年になるか、電話の向こうに優しくゆっくりと話す懐かしい声を聴いた。偶然にもネカネは私の住まいから歩いて5分の場所に住んでいた。夕食の誘いを受け、彼女の家へいく事になった。
  ネカネは大学でサオリの先生をしていると聞いていたので、その容貌はおおむね想像できた。映画館の前のバス停で待ち合わせの約束をした。私は一目でネカネと解ったが、かなり肥えて昔の面影はまったくない。私はそんなに変わってはいないらしい。彼女の家に行くと、夫のパコが出迎えてくれた。パコはすでに年金暮らしで、毎日プールと散歩が主な日課だと言う。
  ネカネの母親も一緒に食事を始めた。母親は私を覚えていなかったが、私は記憶に残っていた。
  当時まだスペインではテレビが充分普及しておらず、夜になるとしばしばテレビの招待をしてくれたのがこの人だった。彼女はすでに80才を超え足が少し悪いようだが、他はすべて元気だと言う。この母親は隣のピソに住んでいて食事は一緒にするらしい。
  夫パコは漫画「サザエさんの益男さん」の熟年版を見るようで、それほどパコは人柄がよく思えた。ちなみに夕食はマッタケ料理。油いためで少し趣が異なる。
それにしてもネカネ達のピソは場所といい、景色に恵まれた8階といい、庶民が簡単に手にする代物ではなさそうだ。
  ネカネは才女でスペイン語バスク語、英語、フランス語の教員免許を持ちドイツ語も話せる。ネカネもホセも残念な事に子供がいない。
  数日後、ネカネとサオリと私の3人で、フランスのバスク地方サラという地区にネカネの運転する車で行った。サラの洞窟には、アルタミラの洞窟に匹敵する時代の原始人がいた事を知った。バスクバスク・フランスもバスク語が共通言語として使われている。フランス人とネカネの会話から実感した。
   バスク語は、スペイン市民戦争後のフランコ独裁政治になってその教育と使用が禁止された。そのため、今の50代から30代の世代の人達はバスク語が話せない。
フランコ没後の24年前、カタルーニャ地方とバスク地方はいち早く自治州の権利を得た。だが文化と言語の密接な関係を人為的に引き離した罪は大きく、いまだにバスク人でありながらバスク語が話せない人達が大勢いるという。イケル達20才前後の若者は、復活したバスク語教育を受けて会話できるが、その親たちは理解できない。
  ラクンサの教師ロサが言うには、バスク語の教員資格を得るのは至難の業らしい。この政治的、文化的事情を背景にバスク独立を掲げるテロリスタ・エタが生まれた。
スペインとフランスとの国境付近の山や森のほとんどが、テロリスタ探索のため伐採されたと聞いた。
 3-16 帰国
 絵画教室ドン・ピンセルで描き上げた油絵7枚の内5枚は世話になった人達に額をつけてプレゼントした。少しやりすぎであったかも。10号と12号の絵は木枠を外し日本へ持ち帰る事にした。
 半年後には妻と一緒に再びスペインに渡る。今回の帰国で一番問題となったのは、専門書等の書籍を中心とした荷物をスペインのどこに保管するかであった。専門の荷物預かり所は月に6000ペセタかかると聞いいていたし、そこまで運ぶのにまた思案がいった。
 アパートのすぐ下の地上階に家族経営のアウケラ(バスク語で機会)というバルがある。35歳になる経営者の長男と絵を介して友達になった。私は食事の支度が面倒になると時々地下のレストランへ行っては家庭的なメニュウを食べていた。
おかげで一家の皆とも顔馴染みであった。
  その中2階に半物置的な場所があるのを思い出し、そこに荷物を置かせてもらう事で話がついた。お礼にジューレンに小型カメラをプレセントした。ジューレンはとても喜び「フランスのビアリッツ飛行場まで車で送って行くと言い出し、一度は断ったが彼の好意を素直に受け取る事にした。
 いよいよ出発の日が来た。ジューレンの車でサンセバスチャンから高速道に入りフランスのビアリッツに30分後に到着した。ビアリッツはフランスの避暑地であり別荘地でもある。ジューレンと別れて2時間待ってチェックインを済ませる。
   ロビーで待つ事40分。パリから飛行機の到着が遅れたため、13時30分に小型機はビアリッツを離陸した。北部の海岸線は全貌が窓下にだんだんと姿を現す。
海岸に押し寄せる波は距離が遠いせいか、白い波線が停止して見える。何度見ても波は動かない。海岸線を後に、小型機は大きく旋回してパリに向かう。パリには予定の30分遅れで15時45分に着陸した。パリ発の時間は20時10分なので多少遅れようと全く関係はない。
 ドゴール空港は広くて整然としているが、タバコを吸う場所がカフェしかないので長時間喫煙せずに過ごすのは機内よりつらく感じる。サンセバスチャンでは限られた日本人しか見る事がなかったが、パリ経由で日本に帰る人は多い。
チェックインを済ませてゲートに入ると、そこはもう日本だという感じがした。航空会社はエア・フランスだが、航空機、乗組員ともJALだった。そのため機内に入ると、周りは日本語と日本人でいっぱいであり、いっそう日本にいる気がした。
 
 半年のスペイン語留学の予定を11カ月に延長したが、それほど効果があったとは思えない。最初のアルカラ時代の3~4カ月の猛烈に勉強した印象が強すぎるのか、自分の学ぶ姿勢にも原因があったのか解らないが、50歳過ぎて頭の固くなった人間には、あまり急いでも語学は簡単に身に着かない。言訳のようであるが。
言葉は使わなければ身に着かないというのは本当の事だろう。
  前半の基礎的勉強、後半の生活的勉強方法が私には1番ふさわしい方法である。だがスペインで仕事をするには、まだまだ不十分である事は確かである。今回の留学が無駄であったと考えるか将来のためになると考えるかは、今後にかかっている。ここでやめてしまっては何にもならない。
 第2弾のスペイン留学を半年先に計画した。次回は仕事をするための勉強、さらには余生をどう生きるかを探る滞在になるだろう。