5-21.AUTO CAD 教室
(1)エル・ゴイバール情報専門学校
 5月3日、英語教室には今月が最後になる事を伝えて、授業料1万3000ペセタを納めた。英語教室が役立っているのかどうか疑問に思えて一度休もうと考えた。
 5月4日、エル・ゴイバール情報専門MHに初めて出向いた。
 学校の秘書に電話であらかじめ場所を聞いたが、現地で問い合わすよう指示された。数人の人に問い合わせ、雨に濡れた坂を登り山の上の学校に着いた。学校は意外と大きく、設備も整っており立派に思えた。
 授業は会社帰りの人を待つため午後7時から始まり、9時に終了する。
教室は40名程度の生徒が収容可能な大きさで各机の上にはすべてコンピュータが並べられていた。全員が着席するのを見ると、総勢15人ほどの生徒であった。
その中に若い女性が1人おり、私と同じ年配のセニョールも2~3人いた。
 授業は2,3日前から始まっていたが、先生は心配しなくて大丈夫と言ってくれた。  私の心配は言葉がどの程度理解できるのかであった。授業が始まると破れかぶれの気持ちで聞いていた。日本語に置き換える暇もなく、矢継ぎ早に先生から発せられる新しいコンピュータ専門用語は、スペイン語の頭脳でスペイン語を聞く調子にあった。70%程度でコンピュータ専門用語は理解できた。
 1カ月間の授業で、私が一番多く質問する生徒だったよう思う。質問しなければ前に進まない。授業は言葉より、先生が黒板に書く字を判断するのに苦労した。
筆記体文字の癖になれるのに時間がかかった。今後は仕事でこの文字に苦労する事になるだろう。
 学校が終わり電車に1時間半揺られて家に帰る時刻は、午後11時に近かった。
(2) 無犯罪証明書
 5月6日の日曜日、妻からの電話で
「東京のスペイン大使館から、無犯罪証明書と健康診断書の不足を理由に申請を却下する手紙が届いた」
との連絡があった。スペイン語も併記されていると聞きその資料をスペインにFAXするよう妻に指示した。
 5月7日は忙しい日であった。大学からの帰り道、エアソ広場にあるエウスコ・トレンのターミナル駅アマラで、エル・ゴイバアルへ1ヶ月間通うための定期券(ボノ)の購入手続きをした。
 前日駅の案内所でもらった申込用紙に必要事項を記入し、写真と信用金庫クッチャの払い込み領収書を持って駅案内所に行った。1ヶ月分の定期代7500ペセタを支払うと写真入り身分証明書と定期券をくれた。
 その後でルールデスが働くウルメア川の対岸の会社に行き、日本からのFAXを受け取った。
 ルールデスはスペイン語で書かれた内容をすでに読んでいて
「貴方の奥さんの言う事に間違いはなかった」
と言う。
「何を考えているのか、妻が言っているのではない、スペイン大使館が言っているのだ」
 日本人が信用ならないのか、馬鹿にされていると思った。
 ニエベスにも電話でスペイン語の文を読んで伝えた。
 却下という言葉はニエベスにもショックであったらしい。私は皮肉って質問した。
ニエベスは、無犯罪証明と健康診断も後でも良いと言っていたがそれはいつなのか?」
「それは今よ」
私は開いた口が塞がらなかった。日本は連休で、大使館の仕事も進んでいない。妻が提出した4月26日に、担当係官から口頭で聞いた事が書類になって送られてきただけの話である。
 その時点でニエベスに連絡をしたが「今は何もしなくてもよい」と自信を持った回答を聞いたのだ。今さらながらニエベスは言う。
日本大使館に問い合わせようか」
「どうぞ」
 その程度の事は自分でも出来るが、弁護士の仕事だと思った。
 数分後ニエベスから携帯に電話が入った。
日本大使館の係りの人は大変やさしい。日本に帰国して無犯罪手続き申請を行えば2週間、スペインで行えば2か月はかかる、どちらを選ぶかを決めなければならない」
気持ちを静めて、マドリドの日本大使館に確認の電話を入れた。この時点で帰国する決心がついた。後はそれをいつに決めるかだ。大学もあり、情報専門学校もある。
(3)マレーシア人
 午後4時半にピソを出て、エウスコ・トレンのアマラ駅に向かった。
 アマラ駅から1時間半電車に乗るとエル・ゴイバアルに至る。サンセバスチャンからの沿線はサラウス、スマイアと海岸線を走りデバから内陸部へ入る。
 最近身の周りに起こる慌ただしさから離れ、バスク山間風景を見ながらの1時間半の電車旅は、しばし私にくつろぎを与える気がした。
 エル・ゴイバアルは人口1万人程度の小さな町である。山と山との間の谷間に多くのアパートが狭い空に向かって建てられている。まだ住宅が不足しているのか、建設工事があちこちで行われていた。
 エル・ゴイバアルの駅は谷間の中にあり、そこから東側の山に登って15分ほど歩くとMH情報学校が見える。この山の斜面にもたくさんの新しい住宅が建てられていた。学校の下には2面のテニス・コートと子供用サッカー場があり、私が到着する時間帯にはいつもテニスやサッカーで遊ぶ青年や子供達を見た。
 坂を登る一般道を横切るように学校への進入路がある。入口の駐車場を過ぎると、道路の両側に校舎が並ぶ。北側は学校職員事務所やインテル・ネットのサービスに利用される平屋の事務所があった。その反対側に4階建ての校舎が渡り屋根で連絡されている。校舎1階の一番奥に大きなカフェテリアがあり、生徒達の休憩の場所になっていた。いつもここでカフェを飲み、一服してから授業に向かう。
 エル・ゴイバアルの界隈で日本人は珍しい、私1人と思っていたがカフェテリアの隣のテーブルに一目で東洋人と解る7~8人のグループが座った。
 スペイン人を見慣れている私は、肌の黒い人種を見る事は稀有に思えた。
 躊躇していると、向こうから話しかけてきた。
マレーシア人であった。彼らは10人のグループでマレーシアとスペインの政府間協定により、この学校に8カ月間技術の勉強に来ていると言った。マレーシアに帰国後、学校の先生になる事も聞いた。
 グループの中には女性2人が含まれていた。2人の男性は日本で4年間働いた事があるときれいな日本語で話す。まさかこんな山奥で日本語が聞けるとは思わなかった。彼らのほとんどが日系企業で働いた事があるらしく、日本企業の名前が飛び出してくる。まだスペイン語は上手くはないが、授業はすべて英語で行われているらしい。

5-22 一時帰国航空券手配
(1)セザンヌ
 この頃、大学・英語学校・情報専門学校と目まぐるしい生活の中にあった。すでに絵画教室は4月末であきらめていた。
 大学の西洋美術史の影響で画家セザンヌに興味を抱き、買った本を読み終えていた。セザンヌは銀行家の父を持つ恵まれた環境に育ち、大学の法科の勉強を投げ出して画家になった。結婚後も家族と別居生活をしながら絵を描き続け、印象派画家のモネ達とうまくいかなかったらしい。後期印象派と言われるゆえんを理解した。
 セザンヌが生涯描き続けたサント・ビクトール山の緑の色に魅せられた。日本人で90歳を超えるまで筆をとり続け、一つの山をモチーフとした中川一政画伯と、どこか共通点を感じる。自然性を絵画の中に追い求めた画風に私は強く共感した。
(2)航空件手配
 セザンヌの本を読み終えた頃、妻と話し合って6月2日に帰国する事を決めた。その理由はCADの授業が5月いっぱいで終わるため。妻はその旨をスペイン大使館に連絡し申請書類の却下を保留してもらう事になった。
 航空券の手配は、1昨年の帰国時に購入したセントロ地区のシレイカという旅行代理店で、アランチャという若い女性担当者に頼んだ。アランチャは私を覚えていた。
 ルールデスは会社が常時利用する店を私に紹介すると言っていたが、偶然にもそれはシレイカであった。アランチャとルールデスとは面識はないが電話でいつも話をすると言う。世間は狭いものである。
 アランチャの話によると、ビアリッツ経由で日本往復は20万ペセタを超え、1番安いのはビルバオ経由のルフトハンザ航空で往復10万ペセタである。
 ビルバオ発は早朝の7時で、かつ帰路フランクフルトのトランジット時間が7時間もある事が理由らしい。帰路の日時はまだ問題があるため、とりあえず7月2日関空発としたが3か月間の変更可能な条件として1万5000ペセタを追加した。
5-23 大学終了
 毎日、エル・ゴイバアルの情報学校に通う日が続いた。そのため大学では、商業文などの書き方をテーマにした授業は放棄した。その授業の先生はマリアと言ってアメリカ人留学生がもっとも嫌う先生である。私も同様であった。
 理由はクラスに来る時間がルーズで、ひどい時は15分くらい平気で遅刻していた。その上授業は教科書に頼る事100%で学生に教えようとするポイントと意図が全く伝わらない。その観念も持ち合わせていなかった。
 スペインで相当な授業料を払ってきた私には、いつしか教師の資質を見抜く能力が備わっていたようだ。彼女にとって気の毒な事は、妊娠していて6月に出産を控えていた。その分の同情を差し引いても、教育者たる資質は大いに欠如していた。 
アメリカの学生達は評価が厳しく口に出す。
 一方、西洋美術史を教えるイナキの高人気は続いた。彼の生活そのものが教師の勉強を支える。旅行が教材を求める旅で、多くの自作スライドを講義に用いた。
文法を教えるマリもそうであった。短い時間にこれだけは教えたい熱意が伝わり、授業の効率を考えていた。
 5月14日から16日までが大学後期最後の試験である。これがスペインで語学を学ぶ最後の機会だと思った。忙しい時間帯を整理しながらイナキの西洋美術史とマリの文法試験の準備にあてた。5月18日に結果が出た。80%の正解率でクラスBの評価であった。西洋美術史で一度だけA評価をもらった事がある。
 イナキの授業は私に大きな影響を与えた。今まで美術館やギャラリーで絵を見ても深い鑑賞能力はなかったが今回その基礎を学んだ。正式に絵の描き方を習った事のない私だったが、作者が伝えようとするテーマと歴史背景の見方から筆の運び方までを学び、美術史とは人類歴史の反映である事を知った。
 スペイン語学の勉強はバスク州立大学外人コースUSACで最後とする。
今後は仕事や生活がスペイン語の勉強の場所となる。
5-24 会社研修開始
 以前から弁護士ニエベスは、労働許可申請を提出後、無給の条件で週に3日程度は会社で働く事が出来ると言っていた。会社の責任者にもその事は連絡をしていた。 
情報専門学校と会社は同じ方向にある。会社で研修後に情報学校に行けば効率が良い事から、5月17日に会社に出向く事にした。
 最初、バスでデバの手前のイチアールに着いた。バス停から見上げる会社の新工場は標高差50mほどに見え、10分も坂を登れば充分に思えた。以前一度この坂を登った事があり、冬にも関わらず汗をびっしょりかいた。その時の事などすっかり忘れていた4カ月前である。
 坂はきつい。20分登った。また汗をびっしょりかいた。
登り切った丘から見る景色は美しい。前面に穏やかな海が開け、眼下に緑の芝生に覆われた丘にポツンポツンと赤い屋根の農家が見える。丘の斜面には白い点の羊が斜面の草を食べている。牧歌的な風景に見入りながら汗をぬぐう。
 久しぶりの会社であるが、一部社員の中では顔馴染みになっていた。責任者と仕事の準備について打ち合わせる。分厚い資料が渡された。まだ正式社員ではないので、万一の事故を考え現場に出るなと忠告を受けた。途中、社長でイケルの父親にあった。
 「6月の初めに、手続きのため日本へ一時帰国する」
と伝えると
 「9月から仕事だな」
 と言った。そうであってほしいと正直に思った。
次回サンセバスチャンから会社に行く手段は、イニゴと言うコンピュウータ管理担当者の車に便乗する事になった。会社の終了時刻に事務所の女性にエル・ゴイバアルの学校まで同乗させてもらう事も。
 朝5時半の起床で眠い。イニゴの車に拾われ高速道路を140kmの速度で走り抜け会社には7時10分前に到着した。仕事は7時に始まり午後4時半に終了する。会社のひけた時間から情報学校に行き、午後9時まで授業を受けるので眠くてしかたない。ルールデスの家には午後11時近くに帰宅になる。厳しい1日を経験した。
5-25一時帰国
(1)AUTO CAD資格認定
 5月28日、最後の会社研修を終え、皆に別れを告げた。
翌日には情報専門学校の最終日を迎えた。その日、講義は行われず、AUTO CADの資格認定表彰が行われた。
 先生は開口一番に、
「私の間違いかも知れない、もし間違っていたら許してほしい。例えば・・・はコンピュータのスペイン用語が完全には解っていないと思う。従って全員に認定書を出す事ができない」
 生徒の約半数が認定書をもらったが私はもらえなかった。いろいろ言いたい事はあったが納めた。全員でカフェテリアに行き、簡単な送別会が行われ解散した。
帰国後すぐにAUTO CADを習おうと思った。資格認定云々より実力が大事である。
(2)スペイン出発、
 スペインを去る前、世話になった人達を簡単な食事に誘った。メンチュウ、ルールデス、アントニオの3組を別々に招待し感謝を伝えた。
 5月31日はサンセバスチャン最後の夜であった。
古い友人ペドロに電話をかけて仕事が決まった事、その手続きに一時日本に帰る事も伝えた。
 ペドロは正直に「私もうれしい」と喜びを表してくれた。私の仕事の件で彼なり気を使っていたのだと思った。ペドロは意外にも8月初めに会社を辞めて年金生活に入ると言う。60歳の誕生日を迎えるらしい。
 ピソの長細いサロンの出窓から通りを見る。建物の間の狭い空に丸い月を見た。2日後には日本で同じ月を見るだろう。
いつもは日本に帰りたいとは思わないが、航空券を購入して手許に持つとその気になる。今回の帰国は想定外の事で、帰国と同時に無犯罪証明申請の手続きを行い、東京のスペイン大使館へ書類申請に出向く必要がある。忙しい日本滞在になる。
 それでも私の心は踊る。イケルやイバイに東京で会えるかもしれない。もしかして、日本滞在中に労働ビザが認可されるかも知れない。反対に却下される不安もあるけれど・・・。1年ぶりの歯の治療も必要だ。もちろん子供達にも会いたい。
 友人達と一杯やりたい。すでにインテル・ネットで連絡していた。
 その夜は帰国後の夢が広がり、寝つきが悪かった。
 翌日午後2時ルールデスの家を出て高速バスでビルバオに向かった。旅行代理店シレイカに依頼していたビルバオの4星ホテル・インダウチュに宿泊。
 翌朝6月2日早朝5時にホテルを出発しビルバオ国際空港には6時前に到着した。まだ辺りは薄暗い。ルフトハンザ航空にチェックイン後、簡単な朝食を済ませて6時半に搭乗した。7時ビルバオ発、フランクフルト9時15分着予定、13時45分フランクフルト発、関西空港6月3日7時45分着予定。