「スペインで就職を」回想録 アルカラ留学

2) 旅行
 医師から制限された1週間が経ち、何とか普通食に戻った。
 旅行は12月29日マドリドのアトチャ駅を出発してコルドバ1泊、セビージャへ2泊して1999年1月2日にアルカラに帰ってきた。往復ともにスペインの誇る新幹線AVEを利用した。この新幹線はフランスのTGVと同じタイプで、列車を先頭機関車が牽引している。各車両は車両間下部に設けられた連接台車のため振動、騒音が低く、乗心地は素晴らしいものであった。
 アンダルシア地方は特に際立った産業がなく、雨が少なく痩せた土地での農業を中心とした貧しい地方である。
 スペインが15世紀にアラブ民族に占拠された後、レコンキスタ失地回復戦争)でアンダルシア地方が最後の戦場になった。そのためスペインではアラブ色の一番濃い地方である。
 その一例としてコルドバにあるメスキタという大きなモスクは、今はキリスト教の聖堂として使われアラブ文化とキリスト文化が融合されている。
 私たち日本人が一番イメージしやすいスペインは荒野の中の白い家、フラメンコダンスとギター演奏、闘牛などでこれらはみな南部地方から発生したものでは。
なおコルドバ市は長崎市と姉妹提携都市となっているのか「長崎」と書かれた記念碑が公園の中に見えた。

2-4 勉強
1)アリソン
 旅行からピラールの家に帰ると、アメリカ南部から来たアリソンと言う21才の娘がすでに生活していた。身長160センチ体重は60キロは超えているだろうと思われるほど堂々とした体格で、歩く姿は相撲取りのように見える。かなり個性の強い可愛気のない娘に思えた。
 アリソンはスペイン語がうまい。何年習っているのかと聞くと「10年」との事。まだ習いだして1ヶ月足らずの自分では勝負にならない。さりとてアメリカ人相手に下手な英語で会話をするのも気後れする。結局、彼女とはあまり口をきかずにいた。それでも、今までセバスチャンとピラールと私という暗い感じの3人の食事が、年頃の女性が加わることで会話も弾み明るくなった。
2)猛勉強
 年明けの1月4日から再び学校が始まった。
 私はエレメンタリーという中級の1ランク、レベルを落としたクラスで授業を再開した。アルカラの小さな本屋で参考書を買い込み、個人的な勉強も始めた。
 この頃は1日10時間の勉強を課し、毎日夜中の1時2時まで勉強をしていた。ただし、これがためになったか否かは疑問である。最初は宿題をすませてから問題集をやる事にしていたが、時間が遅くなると寝る事を優先するので順序を逆にした。そうすると宿題が終わるまで寝られない。時間を忘れて勉強に打ち込めるから。
 サラリーマン生活では夜の12時、1時まで働くのは珍しい事ではなかった。
今自分がやっている勉強は仕事とは違い責任感や義務感によらないので充実感がある。この時ばかりはスペインでの就職も忘れていた。
 私はサラリーマン時代も現在も頭に負荷をかける時は無意識にタバコに頼る。勉強をしながら1日2箱のタバコを消費していた。
 家主ピラールから
「40人が一度にタバコを吸うのと同じ事だ。タバコを吸う時は窓を開けて」
と強く言うからそれを守った。
 アルカラの1月2月は昼間それほど寒さを感じないが、大陸的気候のせいか夜は相当冷え込む。部屋には蒸気暖房はあるが窓を開ければ効果はない。仕方なくキルティングを着て勉強を続けた。
 この状態は3か月間続いたと思う。だが結局根をつめて学ぶ事を途中で止めてしまった。若くない頭にいくら詰め込んでも、後はオーバー・フローするだけの事。無理をしても語学は身につかないと気が付いたのである。
 ほかの日本人留学生に聞くと最初はみな食事の時間を惜しむように勉強をするらしいが、あるレベルを超えると勉強の要領も解り少し量が減ってくるものらしい。私のレベルがどれ程のものであったか判らないが・・・。
 その後、私は再び中級に進級した。この学校で1番ベテランのグレゴリオと言う先生につき「間接法」というラテン語特有の文法に突入して、またもや頭を悩ます事になった。しかしこの先生のおかげでスペイン語の基礎の一部が出来上がったと思う。どうしても解らない時には授業のひけた午後3時頃ふたたび学校に行き質問をした。グレゴリアがいない時は彼の妹のローラに聞いたものである。
 スペイン語の難しさは文法にある。スペイン語は6種類の主語に応じて動詞が活用変化する。しかも分詞活用を除き7種類の時制変化を持つため、これらが6種類の主語と組み合わされると、一つの動詞に対する活用変化は膨大な量になる。これらが日常使われるとは思わないが、日本人はこの難解な文法が案外得意で会話が不得手とも言われている。