[スペインで就職を」回想録 アルカラ留学・切符

3) 切符
 バス停に着くと、マドリドに向かう多くの人がバスを待っている。
 マドリド行きのバスはフランスとの国境に近いイルンを始発にサンセバスチャン・ビトリア・ブルゴスを経由してマドリドへ着く。サンセバスチャンを0時半に出発するのでマドリドには朝の6時半に到着する。
 マドリドまでの列車もあるが、バスは運賃が半額くらいで済み便数も多い。しか
もバスの中で寝られるので宿泊代も浮かせて2重効果がある。この便は往復とも人気があるらしい。
  30分程待つとバスはたくさんの乗客をのせて停留所に到着した。
 切符をもってない人もいるが、その場で買えるらしい。切符を持たない人が先を
争ってワンマンカーの運転手と掛け合うが、後回しだと言われている。切符を持っている人を優先乗車させて行く。
 私はすでに切符を買っているので落着いたもの。悠々と最後に切符を見せながら
乗り込んだ。すると運転手は
 「だめだ」
と言う。
 えっ、嘘だろうと思った。
 「明日の切符だと」
 と、にべもない。私は必死になって
 「昨日、今日のこの便の切符を買ったのだから私に責任はない」
 と持ち合わせるスペイン語を総動員して反論した。だがとうとう頭の禿げた運転
手に追い出されてしまった。
 「じゃー空いた席があるだろう、それでいいから」
 「ビトリアまではあるが、マドリドまではない」
 周りの人達は何があったのかと私を覗き込みながら乗り込む。結局私一人を置き去りにしてバスは12時半を少し過ぎたころにマドリドに向けて出発した。
 残された私は何故だろうと考えた。
 切符を見ると確かに明日の日付が印字してある。夜中の12時半は朝だからポル・ラ・マニアーナであるが、スペイン語では違うのかと思い至った。今まで切符を買うときは最初に「日付」と「時間」を確認していた。家探しでどうかしていたのだろう。
 それより、今からどうすれば良いのか。安いペンションがこの時間対応してくれるはずもない。現金もあまり残っていない。最悪どこかで野宿も覚悟した。
 この停留所が3星ホテルの真前にあることに気がついた。
 ホテルでシングルの部屋を求めVIZAカードの支払いでよいかと念を押した。幸い両方ともOKであった。
 部屋に落ち着いた後、バスタブいっぱいに湯をため久しぶりの風呂でくつろいだ。恥ずかしくて人に言えないと思いながら、疲れた体をベッドに横たえた。

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 翌朝8時ころ目覚めた。私の部屋からバス停が丸見えであるが、バスを待つ人も誰もいない。「昨夜ホセが言っていたストライキでは」と心配になり、そのまま部屋を飛び出した。バス停近くの切符売場は閉まっていて「ウエルガ(ストライキ)」と書かれた紙が貼られていた。
 すぐホテルに引き返し、フロントで列車の予約を頼んだ。駅の回答は「バスのストライキのため、昼間の列車は全て予約ずみで夜行列車しかない」とのことだった。
 ストライキは1日で終わるとは限らない。とにかく早くマドリドに帰ろう、そうしなければ組合に一切関係のない私が兵糧攻めにあうと思った。
 片道20分かかる国鉄駅まで歩き、無事夜行の切符を手に入れた。ホテルへ帰る途中、先ほどまで閉まっていた切符売場が開いているのを見た。私は完全に馬鹿にされている。すぐに切符売場で切符の変更を頼んだ。バスの出発時間は9時半である。
 そこでまずホテルに飛び込んで荷物をまとめチェックアウトをした。すぐさまタクシーに乗り込み駅に急いだ。駅に着くとタクシーを待たせたまま切符の返却を行った。VIZAカードで買った切符の返却は少し手間取ったが、再びタクシーでバス乗り場に帰ったのは発車2分前であった。
   これでマドリドに帰れると思うと一気に疲れがでて車中ほとんど寝て過ごした。

2-11.サンセバスチャンへの出発準備
 アルカラに戻ったのは5月22日の土曜日だった。約1週間学校を休んだことになる。
 5月30日はサンセバスチャンに出発する。残りの1週間を忙しく過ごした。後1週間しかない。
 マイコは私より1週間早くサンセバスチャンに旅発つ。マイコの出発前にいろいろと留意点を聞いておこうと思った。今では彼女は私にとって「歩くスペイン物知り辞典」のようなものである。
 大事な事は「学生ビザの習得」であった。その点自分も気づいておりアルカラの警察に出向き質問をした。警察は「学生ビザは取得まで6カ月はかかる、サンセバスチャンの警察でその旨を伝えれば何も問題ない」と言われたと答えると、
 「おかしいはね、私はマドリドの警察で申請後2か月後に取得したのよ、でもそれなら大丈夫ね」と言ってくれた。
 この時点でもう一つの心配事は荷物の輸送であった。いわば宅配便がスペインにあるのか否か。日本から送った荷物が途中1個紛失した事から輸送に関して大いに不信感を持っていた。
 ピラールの妹は医者の奥様で金持ちである。スペイン南部のアリカンテに別荘を購入時にセウルと言う運送会社を使ったので、そこの見積もりを取ってもらった。重さ100キロでサンセバスチャンまで2万ペセタ。高いのか安いのかわからないが。ピラールは高いと言っていた。
 結局、学校が使う運送会社に見積もりを依頼し8000ペセタと半額になった。ただし日曜日の配達料は平日の1.5倍かかるので出発を月曜日に延ばした。
 2-12 出発
 出発の前日、ピラールから「最後に何が食べたいか」と質問されたので「パエジャ」と答えた。
 遅くとも12時迄に荷持を取りに来るよう運送会社に依頼していた。だが11時を過ぎても一向に来る気配もない。私の気持ちを汲んでかピラールが運送会社に激しく抗議をして11時半に、やっとスペイン流宅配便が荷物を取りに現れた。
 サンセバスチャン着時間指定を何度も確認した。(この時使用した段ボール箱のガムテープが切れにくく日本製のものが大変よく出来ていると納得した)
 出発前の一仕事を終え、落ち着いた気分で昼食のパエジャを味会う。ピラールの料理は彼女自身が言うほどではないが、味は良い方だと思った。
 私は団塊の世代の生まれだ。一番食べ盛りの頃を粗食で育ったので、他人が作ってくれた料理を「まずい」とはあまり言わない。その代わり「うまい」とも滅多に言わない。ピラールは私の事をどう思ったのだろうか。
 ホームステイの難しさは1番に家主の料理の上手・下手にあり、その次に家族と上手くやっていけるかどうかだろう。いずれにしても異文化の壁を越えての事である。充分な表現力を伴わない初期には黙って食べるしかない。幸か不幸か、それはホームステイを依頼した時点で、すでに決まっていた事なのだ。
 とにかく今、アルカラの半年が終わろうとしている。コンピュータ類の貴重品を詰めた鞄を持って、ピラールに別れを告げた。アルカラの駅からセルカニアに乗ったのは1999年5月31日午後1時30分であった。車内の電光掲示板は31度である。スペインはもう夏である。