「スペインで就職を」回想録 アルカラ留学編

3)面接
 ペドロは朝10時頃ホテルに車で迎えに来た。
C会社の本館は28年前と変わっていない。建物南側の壁面は窓を避けるように蔦が茂り、玄関の中に入ると吹き抜けの1階の広さに驚いた。ペドロは受付嬢にディレクトール・G氏の所在を確任して広い階段を上りながら「あれが設計室だ」と指さす。外観が古いだけに建物内部は歴史的荘厳さを感じる。
 G氏は部長待遇の技術責任者だと聞いた。
前の会社の先輩たちはG氏をよく知っていたが私は初対面である。
G氏の個室に入る。広い執務机の隣にはデスク・トップのコンピュータが置かれていた。ここから色々指示を出し会議の予約等を行うらしい。G氏は長身でやせ型、穏やかな印象を持つ紳士と見える。
 面接は約1時間で終わった。結論としては
「スペインは今失業率が高く、組合に外国人採用の申請をする事は非常に難しい。求人も最初にスペイン人、次にEU諸国、それでもいなければ日本人の順番になる。しかし仕事が忙しい時はコンサルタントとして臨時に雇えるので可能性はある」
 との事だった。私が質問した学生ビザでの労働制限に関してはマドリドの日本大使館に聞いてほしいとの事だった。
G氏の部屋を出た後、ペドロは設計室を案内してくれた。設計室は2分野に分かれていて総勢100名が働いているそうだ。
日本で勤めていた会社の設計事務所より、かなりゆったりとしていてコンピュータCADも多く置かれている。一見して事務的に先進性が伺えた。ペドロの話では内作率が95%以上で殆どの部品をこの工場で製作しているとの事。
 工場内の何棟も続くショップの中は製作中の鉄道車両でいっぱいである。55%を輸出に依存しているとも言う。ペドロはこの工場で工程管理課長をしている。28年前は電気関係の技師だったように思える。
 アルカラに戻って来た。この面接の結果をあまり悲観的にはとらえていなかった。そしてこの時点でサンセバスチャンに移ろうと言う意志が固まった。

2-9.タカの自立生活
 北から帰った後のアルカラでは毎週木曜日に絵画教室に通う程度のあまり変化のない生活が続いていた。
 同居人タカが、学校の紹介でピソ・コンパルティール(シェアハウス)に移ると言ってきた。5月に入る1週間前の事である。私のようにホームステイして学校に通う人は1~2か月の短期留学生が多い。それ以上の長期、または留学経験のある人達ほとんどがピソ・コンパルティールで生活している。その方が語学を学ぶには適しているし、はるかに経済的でもある。
長く留学生活する女性に聞くと、外食は別として月1万ペセタの食費予算でやって行けると言うから信じられない。
 私のタバコ代が月に1万ペセタかかる。だが、多くの女性が同じ事を言うのだから、それほど不可能な事でもないのだろう。ホームステイしていると、食費や、物価に無頓着になりがちである。
 とにかくタカの自立に異論をはさむ理由はまったくない。
後はピラールにいつ切り出すかだ。同じ日本人という事で、とかく私は巻き込まれがちになる。これはタカ自身の問題である事を確認した。
 タカは引っ越しの前日にピラールに話した。ピラールは即座に私を呼んで、
「どういう事なの!」と迫る。
「それはタカの問題で自分はタカの父親ではない」
と返すと、
「いつも2人でこそこそと日本語で話している。英語で話しなさい」
と血相を変える。思わず吹き出した。ピラールは英語が理解できないのだ。とにかく彼女は機嫌が悪かった。彼女にとっては生活がかかっているから仕方がないのかも知れない。
 タカは5月2日の月曜日、昼食を終えて1人で家を出て行った。2回に分けて荷物を運んだらしく、私の手伝いを断った。あれほど怒り狂ったピラールも玄関先で
 「何かあったら連絡しなさい」
 と声をかけた。1つ屋根の下に1ヶ月も住むと情が移るのだろうか。セバスチャンの時とはだいぶ事情が異なる様だ。
 私はますますピラールが解からなくなった。あれほど感情を剥き出しに怒りを表すのが、スペインではゲームのように当たり前の事かも知れない。
 その後タカと学校で会うたびに、彼のスペイン語の上達ぶりに驚かされた。