[スペインで就職を」回想録 アルカラ留学・学校

2-2.学校
 1)初日
 スペイン到着後の2日目。
 ピラールから朝8時半に学校に行くよう言われたので、筆記道具を持って学校に向かった。今日から学校に入る生徒4名が、教室で簡単な筆記試験を受けた。
確か15問中1問か2問しか正解できなかったが、中級のクラスに決まった。
この辺りからだんだんと雲行きがおかしくなってくる。自分が考えていたすべての事が、形を変えて現れ始めたのだ。
 生徒7~8人の構成で、9時から授業が始まった。自己紹介で、先ほど試験を受けた3人のうち2人はブラジルから来た恋人同士であり、もう1人は30才のフランス人女性である事が解った。
授業はスペイン語だけで行われている。これも大きな誤算であった。飛び入りした授業は、命令形の動詞活用の説明と質問が繰り返された。

 とんでもないクラスに入ってしまった。最初の印象は「先生の話す言葉と内容がよく解らない」であった。
 自慢ではないが、半世紀に渡る人生でスペイン語を正式に習った事はない。ただ1度28年前に会社の出張で半年ほどスペインに滞在し片言のスペイン語を生活の中で覚えた程度である。スペインに来る前も、語学の予習の必要性を感じながら勉強はしなかった。
「お金を払って学ぶからには、それ相応に言葉も身につくはず。語学など何とかなる」
と楽観的に考えていた。要するに語学をなめていたのだ。
 ここに来て、はじめて自分の置かれた立場の重要性を思い知らされた。
 授業はわずかな休憩をはさみ4時間行われる。初日の4時間は1日ほどの長さに思え、苦しく感じた。何年たってもこの苦痛を忘れる事は出来ないだろう。
「スペインに活路を見出す」と言い切って、会社を辞める事を了解させた妻に言い訳も出来ない。こうして私のスペインでの留学生活が始まった。

2)授業
 初日の授業の後、肩をがっくり落として自室に戻った。私の留学目的はスペインでの就職準備である。遊学ではない。今年2度にわたりスペインを訪れ、古い友人と話し合った結果、
「半年も学校で勉強すれば言葉はどうにかなる」
 と確信めいたものを持ち予算も組んだ。だが、旅行程度の会話と生活をするための語学の差がこれほど著しくレベルが異なるとは思わなかった。
 何も解っていなかったのだ。後々、日本人留学生に聞いてみると「日本で少なくとも7カ月程度はスペイン語を勉強してから留学する」のが普通である。悔やんでみても後の祭りである。
 「今からスペイン語をどんな方法で自分のものにしていけば良いのか」
いずれにしろ、自分から動かなければと思った。初授業の後行ったことは、生活に関連する動詞を辞書で拾い出す事であった。
 その夜の就寝前、学校へ提出した申込書の事を思い出した。私はクラスの日程を考えた事はなく、自分の都合でスペイン出発の日時を決め、申込書の中級の欄に丸印をつけたのだ。
「何と無知であったのか」
 それでも下のクラスに替わろうと思わなかった。
 その後来る日も来る日も、針のむしろに座る思いで授業を受け続けた。今考えると先生の話すスペイン語は1割程度しか理解していなかった。文法も知らないし、すべて勘がたよりであった。
 授業で一番苦しいのは、習った後ですぐに行う練習問題を順番に答える時だ。習っている事自体がよく解らないので、チンプンカンプンに答えては皆に笑われた。この状況はその後当分続いた。
 唯一の救いは授業の前後半を区切る休憩時間で皆と同様学校の前のカフェでコーヒーを飲みながら一息つく事であった。日本人の生徒達は日本語を話さずスペイン語で会話をするため輪の中には入って行けない。
 たとえ言葉が出来たとしても、自分の子供ほどに若い人たちの仲間に入るのには躊躇する。クラスで孤立、カフェでも孤立していた。
 {語学ができない}={その人が無能}という事ではない。だが日本人気質として、しかも自分ほどの年齢になると強く劣等感を感じるものである。その時点でまもなく52才の誕生日を迎えようとしていた。
 しかし世の中はよく出来ていて自分のような生徒がもう1人いた。
 その生徒はデリックと言う30才のイギリス人男性で、香港で新聞記者をしていた。クラスの中で自分と彼だけが順調な授業を妨げていた。カフェでも何となく席を同じにすることが増えた。彼は「学校の教え方が悪い」と文句を言い、同じ学校が経営するサラマンカの学校に移って行った。