「スペインで就職を」回想録 語学留学(アルカラ)

2章 語学留学(アルカラ)
2-1.ホームステイ先
1)スペイン到着
  照明に煙るロンドン市街が傾いて見える。
  成田を出発後、ヒースロー空港で乗換え、マドリドに向け飛び立ったのは1998
年12月6日、現地時間で午後6時半を少し回った頃だった。
 満席の航空機は大きく旋回しながら上昇を続ける。
「熟年と呼ばれる年齢を終えようとする私に、留学という言葉は不釣り合いかも
知れない。でも自分の意志と費用でスペイン語を習う。年齢なんか関係ない」
 そう自分を叱咤する気持ちと、今後半年間に何が起き、自分がどう変るのか期待と不安が混在していた。
 スチュワーデスや機長が雑音交じりに早口で喋るスペイン語機内放送は、すでにスペインの生活に一歩を踏み入れた実感と緊張感を感じさせる。
そのせいかマドリドまでの機内時間を短く感じた。
 暗闇のメシタに金色に浮かび上がるバラハス空港を目にしたのは、午後10時を少し過ぎた頃だった。空港到着後、1時間近くを経て空港ロビーに出ると、私の名前を書いた紙を頭上に掲げた1人のスペイン人青年が出迎えてくれた。
 学校に依頼していた案内人である。私の荷物を車内に収納すると、閑散とした高速道路を時速140kmで走り抜けた。車は20分後にはアルカラの薄暗い街に入った。
2)ピラール夫人
  青年は、エミリオ・カステラル4番地に車を停めた。マンションの玄関口のインターホンで何やら話をした後「ここだ」と言って荷物を内部エレベータに運び込んだ。  3階まで同行してくれそこで別れた。
 エレベータの降り口は暗い。その奥の扉から漏れる明かりの中で、背の高い初老の女性が私を待ち受けていた。
  「ビエン ベニード」 WELL COME
 そう言って家の中に招き入れてくれた、この女性がピラール夫人である。
 学校の紹介では60才の明るい未亡人との事だった。声が大きく、少し圧倒される思いで初対面の挨拶を交わした。
 同居人のセバスチャンも私を迎えてくれた。彼とは英語で会話し、20才のタイ人留学生である事が解った。顔つきから何となく陰気な印象を持った。ピラールは部屋と洗面所を案内し
「今日は疲れているので早く寝なさい」
 と勧めて姿を消した。
24時間ぶりにベッドに身を横たえた。部屋は日本風にいうと6畳1間程度、ベッド、机、本棚、洋服箪笥が所狭しと置かれていた。浴室にはシャワーしかない。
 一夜明け、ピラールはマンションの各部屋を紹介してくれた。20畳程度のサロンを中心に南側に細長いダイニングキチン、北側に夫人の寝室、セバスチャンの部屋、私の部屋と並んでいる。各部屋は道路側に面していた。サロンの東側は廊下をはさみピラール専用の浴室、学生の浴室、玄関があり、玄関から各居室までは廊下で逆L字形につながっていた。キッチンの隣には多目的室(冷蔵庫、洗濯機が置かれていた)があり、その隣に4畳半程度の小部屋がある。総計5部屋で、面積140平方メートルとのこと。この面積は2か所のベランダを含めた広さを言う。
 部屋のモジュール的大きさは日本と同じ位だ。人間が住むために必要な空間的条件と経済性とで決定される部屋の大きさは東洋も西洋も同じである。
 サロンはベランダに面し、接客用の円形テーブルを中心としたゾーンと、テレビ、ソファーを置いたくつろぎの2つのゾーンで構成されていた。その間に配置された低い茶器棚の上にはピラールの若い時の写真等がたくさん飾られていた。
写真によると昔の夫人は奥ゆかしい魅力を漂わす美人と想像できるが、現在は顔面のしわが気の強さを物語るように、感情を直接表面に出すタイプのおばさんに見える。
 本当に半年もうまくやって行けるのか心配になった。
 ピラールへの土産として、日本から漆塗の小箱を持参してきた。彼女の反応からスペイン人は贈り物を大変に喜ぶと率直に感じた。ピラールはスペイン語しか話せない。
 私は彼女の言いたい事を大体のニュアンスで感じ取り全てを判断した。
 夫は元化学工場の技師で6年前に心臓病で亡くなった。その後こうした下宿屋を始めたらしい。私にはタバコは体に悪いから止めるよう言いつつ自分もタバコを吸い続けている。
 ピラールはまだ荷ほどきも十分でない私を学校エスクエラ・インターナシオナルへ案内してくれた。ピラールの家から歩いて5分もかからない所に学校はある。
 その近くには国鉄の駅も見え郵便局や銀行もあって、何をするにも好都合で位置的には申し分のない下宿だと思った。