「スペインで就職を」回想録 サンセバスチャンへ

1-3 サンセバスチャンへ
1) 特急列車DIRUNO
 朝7時半に朝食を終えホテルを9時に出た。
アトチャ駅からセルカニアでチャマルティン駅に向かった。
 車内は日曜日のせいか、あまり乗客はいない。チャマルティン駅に9時半に到着。長距離列車は10時発なのでまだ30分はある。少し辺りを観察する。昨日行った北駅からもう国際列車は出ない。その機能はチャマルティン駅に移されていた。
 フランス北部行きの列車アナウンスが聞こえてきた。行先表示板には私の乗り場がまだ表示されない。皆大きな荷物を持っている。学生なのか大きなリュックサックを椅子の上に置き、ミネラル・ウオータのペットボトルを抱えて、表示板に見入っている。
表示板には特急列車DIRUNOと表示してある。切符を改めるとTALGOではなくDIRUNOであった。やっとアナウンスと共に、表示板にVIA8と出た。
 皆一斉にホームに向かう。私も8番乗り場へ急いだが、ホームではまだ機関車と列車が接続中であった。
 車内は普通の腰掛タイプで天井にはテレビが備えられていた。今車両を連接したばかりなので暖房がすぐ効かないらしく車内は寒い。
しばらくして列車は出発した。車内アナウンスが始まり、女性乗務員が改札に回って来た。座席はOKである。テレビの映画が始まったが、アムステルダムへの機内の1本目の映画と同じである。
 チャマルティン駅を出たDIRUNOは6時間半をかけて目的地サンセバスチャンへ向かう。途中の駅名も何もわからずに変な旅である。
地球の歩き方」の本のみが私には頼りである。
 マドリドを出発後しだいに荒涼な風景へと変化する広い大地を走る。そうかと思うと松林に覆われた公園の中を走り、沿線には別荘なのか庭付き戸建て住宅が整然と並ぶ風景を見た。
 やがてスペインでは珍しく高い山々を見る。列車は山のふもとを縫うようにして勾配を登っている。
  昔マカロニウエスタンが流行した時代に、俳優三船敏郎もスペインに来てロケを行ったと聞いた事があるが、この辺りはそれにぴったりな地域である。自然が小川を作り、小川が沼を作る。人を入れない原野である。途中で小さな町を通過したが、教会のような城のような古く大きな建物を見た。
  私は初めマドリドからブルゴスへ真っすぐ北上するのかと思っていたが、最初の停車駅のアナウンスを聞いて想像したコースと違う事に気がついた。             
その駅はアビラである。ここで日産の自動車工場を見た。その前の町はエル・エスコリアルだったと記憶している。いずれも「地球の歩き方」によると、日本人の訪れるべき有名な歴史的観光地と紹介していた。

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 アビラを出ると、また広い大地の真ん中を悠々とDIRUNOは走る。
 速度は時速150km出ているのか、軌条間隔が日本の新幹線と同じ広軌1369mmの上、ほとんどが直線コースを走ることもあって、列車は揺れることもなく安定して走る。乗り心地は極めて良好である。狭い国土を曲がりくねって走る日本の鉄道路線では想像もつかない。車窓からの風景も車内もゆったりしていて眠気を誘う。
 時折、この広い平原の中の石垣で囲われた敷地の中に、馬や牛が放たれてのんびりと草を食べる風景が通り過ぎて行く。ある時は緑に覆われ、ある時は赤茶けて荒れた大地が見えた。人のための道などほとんど見る事はない。山はまったく見えない景色に変わっていた。スペインの国土の広さをまざまざと見せつけられる。
 長く水平なトラス構造梁の下に台車が目測30m間隔、5スパンで上部構造物を支持している。その上部から種まきでもするのか日本では見なれぬ巨大農耕機械が畑の中に放置されていた。
 時間は12時半。列車はバジャドリッドと言う比較的大きな駅に到着した。車内のほんどの乗客が降り、かわりに大勢の客が乗車してきた。私の隣席はずっと空席であったが、ここから若い娘さんが座った。学生なのか難しそうな本を出して読んでいる。
 13時20分ごろ、ブルゴス駅に着き彼女は降りた。この辺りから少し緑が多く感じられる景色になった。民家も工場もある。あの荒れ果てた大地は一変した。少し人工的に整備された風景になった。川もあるが雪が降っていて、小高い丘の上には薄く雪が積もっていた。
 喉も乾きタバコを吸いたくなったので食堂車に向かった。
 食堂車は最後尾車両の半分でその半分がクロステーブル、残りの半分は窓際に面した長テーブの構成だった。食堂車の入口にキッチンがあり、中で男性一人が客に対応している。その男性の前に行くとメニューを取り出して選べと言う。しばらく迷っていると写真入りのセット・メニュウを示した。その中の野菜と肉をオーダーした。
 ビールとグラスを持って窓際の長テーブルに腰を下ろし、何時間ぶりかのタバコを吸った。ほかの客はハンバーガーを紙に包み、カフェを手に座席へ去って行く。
私が出張中と思ったのか、丁寧に請求書を手書きしてくれた。
 満腹にもかかわらず今夜はホセの美味い料理が食べられる。何を食べさせてくれるのかと楽しみに思いながら座席に戻った。
2) バスク
 車内放送で「次駅はミランダ」とのアナウンスが流れた。
 やっと日本の田園風景と同じものに巡り合った気がする。ミランダを出て14時10分ビトリア駅に着いた。ビトリアバスク州の州都である。大きな町と言うよりは都市である。スペインではバスク州バルセロナがあるカタルーニャ州はその他の地域と言語を異にする民族の住む地域である。
 この旅の出発前に「街道を行く」(司馬遼太郎の南蛮の道)というNHK番組で、バスクを紹介するドキュメントを見た。
 印象に残ったことは次の2点である。
 種子島ポルトガル人が漂着して鉄炮を伝えた後、意志と計画に従って日本に来たのはフランシスコ・ザビエルである。この人こそ西洋文化を最初に日本に伝えた人であり、フランシスコ・ザビエルバスク州の出身であった。
 バスク人は先住民である。先に民族があり、後から国家が来た。
 今でもバスク独立運動過激派はテロ活動を続けている。私もここ10年間に2,3冊の本を読んだ。私なりにこの地方が抱える難解な問題を理解しているつもりでいる。それでもこの地方の美しさと人間に惹かれ、長年の夢がこのバスクに私を呼び戻したのである。
 やがてDIRUNOは15時にアルサスア駅に到着した。昔、特急TALGOでマドリドからベアサイン出張時、この駅で乗り降りした事がある。あともう少しだ。
 ここからバスク色は一層強まっていく。この辺りはイベリア半島をフランスとスペインに2分するピレネー山脈の麓である。列車は最後の目的地サンセバスチャン目指し山を登り始めた。小さな曲線上を車輪とレールの摩擦音をきしませながら、全負荷運転でゆっくり、ゆっくりと登って行く。
 辺りの景色が急変した。雪は降っていたが、緑の丘の上に赤い屋根の民家がちらほらと現れだした。峠を越した辺りから、見覚えのある風景が続く。ベアサインに近づくにつれ、小さな川にかかった古い石橋や小道の沿線風景など27年前の記憶が合致し始めた。
 長い間、憧れたヨーロッパの田舎の故郷に帰ってきた思いがした。窓に顔を押し当て、ホテル・カスティージョを探したが見えなかった。ベアサイン駅周辺も見た。私が密やかに就職を希望しているC社の工場も見たが、以前と変わった景色には見えなかった。ついにベアサインに来た。胸が熱くなり懐かしさがあふれた。
 16時25分、穏やかな景色のサンセバスチャンに到着した。
 3) サンセバスチャン
 長旅で疲れた私は、鞄とともにホームへ降り立った。
 確かこの地を踏むのは3度目である。ホームから狭い地下通路を通って駅の待合室に出た。待合室の様子を一通り見て、英語が通用する事が解った。
 インフォーメーションの受付で帰りのサラマンカへの時間を教えてもらう事にした。  受付の女性は1枚の時間表を広げ青いボールペンで該当部に印を入れてくれた。今ここで列車を決めるつもりはない。明日ここからベアサインに向かうセルカニアの時刻を壁の時間表から写し取った。
 駅の外に出ると懐かしい景色が目に入ってきた。早速タクシーで駅から5分のホテル・パロマに直行した。
 ホテルはホセに予約を依頼していた。コンチャ湾近くでホセの経営するレストランに近く、昔のホテル・カスティージョ並みの価格(朝飯込みで10000ペセタ)。

 ホセと会う時は一度部屋に戻ってから出直す事にして外出した。
 フロントに鍵を預けながら「この街は安全か」と聞くと「そうだ」返事が返ってきた。それを確認して出かけた。
 先ずホセの店を見ようと地図を片手に歩いた。「CASA NICOLASA」(カサ・ニコラサ)というのがホセの新しい店の名前である。ホテルからすぐ近く100mぐらいの場所に店を見つけた。高級レストランのイメージが漂うが、店の入口に何か張り紙がしてある。
「1月26日から、2週間バカンスのため店を休みます」
と書いてあった。
 ホセはサンセバスチャンから電車で1時間ほどマドリド側に戻ったベアサインという小さな村で、ホテル・カスティジョを経営していた料理人の息子である。
 私は3度、通算1ヶ月このホテルに滞在した事がある。当時若干24歳だった自分が、当時この地で珍しかったせいか、ホテルの親子姉弟に大変可愛がられた気がする。
 ベアサインにはスペインの車両メーカーC社があり、C社の技師ペドロは退屈する私を色々もてなしてくれた。
 会社を辞めてからスペインに行く日取りを決めてもホテル・カスティージョの連絡先はわからず、日本の前会社の友人が調べてくれ電話番号が判ったのである。
 この旅の5日前の1月16日にスペインに電話を入れた。
 ところがホテルのオーナーは代ったと聞いた。現在のホテルが教えてくれた「カサ・ニコラサ」に電話をするとホセとアナ・マリアの懐かしい声を聞いた。
 やはりホセが成功したことは店の位置、外観から見える風格で充分察する事ができた。店を後にして海岸に出た。
 日曜日の夕方と言うのに家族で散歩する姿を多く見る。湾を囲む形で照明塔が並びオレンジ色の灯りが美しく湾を照らしていた。
 ベンチに座り27年前を思い出す。ちょうど24歳の誕生日をスペインで迎えた。まだ若く技術的にも未熟で仕事も順調ではなかった。ホームシックから日本に帰りたい気持ちが芽生えても誰にも相談することも出来なかった。
 そんな時、車を借りこの海岸まで来て砂浜で一人、藤村の「やしのみ」を歌った事を覚えている。
 寒くなってきた。ベンチから立上がり街の中央のほうに歩く。この街は何年経っても変わらない、変わり様がないのかも知れない。

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          コンチャ湾と遊歩道