「スペインで就職を」回想録 マドリドへそして帰国

1-6 マドリドへ そして帰国
1) マドリドへ
 翌日、フロントの青年にESCUELAの場所を聞き、アルカラで教えてもらったサラマンカスペイン語学校を探した。57番地をみつけ、エレベータでESCUELAのフロアーまで上った。
 下りると明かりが見え開かれたままの扉の奥に受付嬢がいた。黒縁の眼鏡をかけ、真っ赤なセーターを着た女性がこちらを見ていた。
自己紹介をして「アルカラからの紹介で学校を見に来た」と言い、教室やホームステイ先のことを尋ねた。
 ホテルに帰り、マドリド行きの特急列車の時刻表を見て、今日はDIRUNOが運転されない事に気がついた。フロントの青年に相談すると
「何故バスに乗らないのか、バスは1時間に1本ずつでている」と続けた。
 タクシーを呼んでバスの発着場へ行くよう頼んだ。
 バスセンターはサラマンカ駅から少し離れていた。センター内では多くの人が待っていて、鉄道駅とは違う活気を感じた。
 スペインは鉄道路線の開発よりも高速道路網の整備が優先されて、高速バスが緻密な運航サービスを提供しているように思えた。2時間半でマドリドのバスセンターに到着した。
2) 帰国
  プラード美術館もレイナ・ソフィナ美術館もホテル・アグマールから歩いて10分程度の便利のいい場所にあった。プラード美術館はアトッチャ駅の交差点の北側のなだらかな坂を登る途中にある。
 ホテルからアトッチャ駅に向かう丁度半分くらいの所に、軍関係の建物がある。入口には、いつも兵士が見張りについていた。まだ少年のような顔をした兵士がベレー帽に迷彩色の軍服を着て、自動小銃を肩からかけ右腰に構えて警備している。
 私達が日頃、自動小銃の本物を目にすることは稀である。童顔の兵士が持つ自動小銃は玩具にしか見えない。
 プラード美術館の入口が見えた。入場券を買い、セキュリティ・チェックを受けた後館内に入る。人の流れに身を任せるほどの混雑である。どこから見るのか職員に尋ねると2階からだと教えてくれた。2階に上がると大きなホールがあった。
 その端のドーム状の部屋に、美術館全体の案内図が掲示されていた。それにしたがって絵画を追って歩いていると、だんだん日本人の団体客が増えて、いつの間にかホールいっぱいに日本人で溢れた。プラード美術館の特設展示会が日本国内で催されているような錯覚を起こす。
 エル・グレコを見て、ベラスケスを見る頃、日本人団体客を随分じゃまに感じ始めた。団体のガイドが絵の一番良い場所を陣取って説明するため前に進まない、絵は見えないで他の人達には迷惑な話である。
 裸のマヤを見る頃から汗をかき始め、気分が悪くなった。
 しばらく椅子に座って休んだが、ホテルに帰る事に決めた。
 明日の長旅を考えての事である。

 1月30日朝、目が覚めると、体はだいぶ楽になっていた。帰り支度のため鞄に仮詰し、不要なものを捨てて帰る事にした。
 昨日見られなかった、国立美術館レイナ・ソフィナを見ておきたいと思った。
 ピカソゲルニカがある。11時半にホテルに戻ればよい、9時半にホテルを出た。レイナ・ソフィナはアトッチャ駅の向かいの少し奥まった場所にある。
 朝10時からの開館だったので15分ほど待ち時間があった。
 プラード美術館は古典絵画をレイナ・ソフィナは20世紀を中心とした現代美術館である。館内に入って案内表示を見ると4階まである。私には時間が充分ないので4階から見ながら降りる事にした。
 正直言って抽象画はよく解らない。ダリ、ミロと順番に見てピカソのコーナーでゲルニカを見た。大きな絵である。ナチスに対する恨みと失望感が出ていると日本で聞いたことがある。

 さて私には時間がない。急いでホテルに帰ると11時を少し回っていた。
 チェックアウトをすませ、タクシーで空港へ向かう。3車線の道路を右に左にハンドルをきる。速度計は140kmを表示している。無事に15分ほどで空港に着いた。空港ではJALに代るKLMのカウンターでチェックインを済ませた。

3) 今回の旅を振り返る。
 スペインで就職するために、先ず27年前の足取りを掴む事で、スペイン北部のバスク地方を訪れた。思った通りの美しく変わらぬ街サンセバスチャンで高級レストランを経営する友人ホセとアナ・マリア夫婦にも会えた。
 今回の旅の最大の目的で「スペインで就職する」ためのキーマン・ペドロに会えた。  会えたから仕事が決まるものではないが、何かの援助と協力が得られるかも知れない。 ペドロには会えると思ってもいなかったし、まだ彼がC社で働いているとは想定していなかった。まだ私にはツキがあると思えた。
 帰国後、喉の手術を終えて再びスペインに来る。半年間、スペイン語の勉強する学校も見つけた。今から頑張る、もうサイは投げられた。