スペインで就職を(会社編)ペンションの生活

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   ペンションから見るアンデュスペ山

 

ペンションの生活
1.) ペンション“アンデュスペ”
 会社から3km麓側に人口300人程のアルトイチアール村がある。
 この村には簡易ホテルとペンション“アンデュスペ”があるが、
「このペンションが安いわよ」
と社長夫人が値段の交渉をしてくれた。
不経済なペンションに投宿する積りはなかったがアパートに空きがなく臨時の住まいとなった。
 かなり高い場所にペンションはあり眺望に恵まれていた。
 部屋の窓からは青空とカンタブリア海を背景とするキャンバスに緑の丘陵を描きその中に羊の群れが牧草を食べる牧歌的な絵のようである。
 夜明けには、牛が鳴き、鶏鳴で目を覚ます。
 近くの教会から朝6時に薄っぺらのティンバルを叩くような「カン、カン」と鐘の音が流れくる。
 起床後シャワーを浴びる最中に温水が突然冷水に変わり飛び上がって驚く。ボンベのガスが切れたらしい。
 苦情を言うと宿の主は
「目が覚めて良かったろう」
と悪口を叩く。そんな事が2度ありシャワー使用時、先ず頭を洗いシャンプーを温水で流して目の保護を最優先とした。
 ペンション兼バルは村の社交場で毎日村人たちが集い、滅多にお目にかれぬ日本人の 私は恥ずかしながら注目の的であった。
 このペンションの食事はバスクの家庭料理で大変美味であった。
 7年後再びこのペンションを訪れたがもう営業はしていなかった。
2.) バスク語
 宿の主人はフアンと言う少し足の不自由な54歳の独身男性で生粋のバスク人である。
 私が「ここスペインに来てから」と言うと、「スペインとはどこの話だ、スペインは他の国であり、ここはバスクである」と説教をする。
その上バスク語の挨拶を習えと言う。
         スペイン語           バスク語
   お早よう ブエノス ディアス        エグノン
   今日は ブエナス タルデス         アラッツア・レオン
   今晩は ブエナス ノーチェス        ガボン

 上記の通りスペイン語バスク語に全く関連性がない。
いつ、何処から来た民族・語源なのかも明確ではないらしいがバスク語に全く関心はない。
 バスクの田舎の生活では80~90%バスク語が使用されている。
 1937年スペイン内乱終結によりフランコ独裁政治が始まりバスク語の使用を禁止する等のバスクへ弾圧が始まった。
 当時、田舎の人達はスペイン語を知らずバスク語を話すと刑務所に投獄された。それでフランス・バスク中南米、北米に難民として逃れた歴史があるらしい。
 (ピカソの絵ゲルニカはこの時代でスペイン内戦を描いたものである。)
 1975年フランコ総統没後のバスク自治令でバスク語は復活した。
 現在、子供達はバスク語で育てられ学校でも先にバスク語を学び後にスペイン語を、さらに中学では英語が教えられる。
 そのため子供達には大変な課題だとテレビは報道していた。
 前々から2カ国後を操るバスク人はなんと器用な民俗だと感心をしていたが、実際には複雑な問題が存在することを知った。
 バスク語公用語である。官公庁に就職するには程度の高いバスク語能力が求められる。
 会社の中でもバスク語は半分程度使用され、会議で突然バスク語を話す場面に驚く事もである。
 日本語に近い発音や文法構造と言われるが私には不用であった。
 両者をあやつるバスク人にどちらの言語が使いやすいかと聞くとスペイン語は新聞・テレビ・映画の多方面で使われるので親しみやすい。バスク語の表現には限界があるらしい。

 バスク人はあまり身長は高くなくずんぐりとしたスタイルで力持ち、寡黙である。
 血液型がRHマイナスタイプが多いとも言われている。