スペイン・バスク滞在回想録 最終回

(3) 日本で
 次男は空港まで私を迎えに来る事になっていた。しかし次男の姿はどこにも見えない。30分待っても現れない。まず宅配便でトランクを自宅へ発送した。
1円の日本円を持たないので、銀行出先機関で両替をした。
驚いた。スペインの1万ペセタは日本円で4200円にしか両替されない。なんという事だろう。ペセタを使うのが惜しくなり、自宅までの列車料金はVIZAカードで支払った。
 翌日4日の月曜日、早速行動を開始した。広島県警に出頭して無犯罪証明の書類申請を行った。すべての指紋と組み合わせ指紋を取られ、これで悪い事が出来ない心境になった。スペインでも学生ビザ申請時指紋を2度取られた事があるが、日本では初めての事である。
犯罪歴調査で間違いでもあると困ると不安がよぎった。
 歯科医院に行くと、
「1本悪い歯があるので抜きます」
と言われたが心の準備が出来ていない。変な理由をつけて先送りした。
 その週の金曜日に無犯罪証明書が警視庁から広島県警に届けられ無事受領した。本人は開封できないので、「何も問題はありませんでしたか」と尋ねると「大丈夫です」との事。その日国際運転免許証も取得した。
翌週月曜日、飛行機で上京、長男の案内で六本木にあるスペイン大使館に直行し、健康診断書と無犯罪証明書を提出した。その時大使館員に2つの質問をした。
「労働許可書と居住ビザとどちらが先に認可されるのか」
「労働許可」
「4月6日にスペインの地方労働当局に労働許可申請をしたがいつごろ、何カ月後に認可がおりるのか」
「それは解らない、下りないかも知れない」
との答えが返ってきた。
スペイン大使館を後にして、長男と神田の古本屋へ立ち寄り、仕事関係の本4冊を購入した。埼玉県川口市へ寄り、長男とイケルが世話になっているアパートの家主に初めて挨拶とお礼を述べた。
翌日正午にイバイとイケルと新宿東口のアルタ前で会う事にしていた。12時前にイバイがやって来た。合気道の黒帯を取ったが、その後足を捻挫したらしい。
恋人ナツミも元気だと聞いた。イバイの話を聞きながら日本語が上手くなったと感じた。少し遅れてイケルがアルバイトのマグドナルドの制服姿でやって来た。
イケルを日本で見るとよりハンサムに感じる。近くの地下食堂で和食を食べながら、3人で積もる話をした。もう彼等は箸の使い方も慣れたもので、器用にご飯や魚を食べている。2人共日本の生活、いや東京の生活に慣れ、満足していると聞いた。喫茶店に移り話を続ける。彼等二人も
たまにしか会わないらしい。日本語とスペイン語の半々で話した。イケルの通う日本語学校の授業が始まるとの事で、3人は別れた。
 地元に帰り歯を抜いた。医師は2カ月程度治療に必要という事で帰路の航空券の変更が必要になる。120ユーロ必要。
この頃、知人にAUTO CADを有料で1週間教えてもらったがスペインで習ったソフトと少し違うようで、多くの種類のソフトがある事に気が付いた。仕事関係の本と資料は大部集まり始めた。
(4)労働ビザ認可
 日本での1ヶ月はあっと言う間に過ぎた。7月19日、自宅の郵便受けにスペイン大使館から手紙が届いた。労働ビザが認可されたので2か月以内にパスポート持参で出頭の事、と書かれていた。感激を味わうよりも、今後の予定変更が頭を混乱させた。出発までに1週間しかない。いろいろと考えたが出発日を変更する事に決めた。繋がりにくいルフトハンザ航空に電話を入れた。8月1日に空席があると聞き、再再度予約変更をした。これで240ユーロ支払う事になる。
 翌日7月20日、パスポートをスペイン大使館あてに書留速達で送った。
 7月20日は海の日の祝日であるが、郵便局で速達業務は営業されていた。スペイン大使館にFAXを入れて7月27日にビザ受け取りが可能かを確認した。OKであった。
旅行代理店でビルバオのホテルの予約をすませているが、変更が認められない。サンセバスチャンの空手の先生と連絡をとり生徒に実費扱いで空港まで迎えに来てくれる事になった。その生徒はイケルの友人でもあった。
 ルールデスにビザ取得の話とスペイン到着遅れの連絡を電話で入れた。日本でスペイン語を聞く事はほとんどなく、電話での会話では言葉を探しながら喋る。
彼女は言った。
「おめでとう、私のピソも売れたので、貴方は8月末しか住めない」
スペインを立つまでは9月末までと聞いていたが、また忙しくなると思った。
 7月29日、東京で労働ビザを取得した。後はスペインで警察に出頭して手続きを済ませれば良く、大使館員からは
「活躍を期待します」
と激励された。
 その帰りイケルと長男と3人で昼食を取った。イケルに「会社に近い場所にピソを探したい」と相談すると、
「僕の母はピソを探すのが得意で場所もよく知っているから相談してみる」
お願いする事にした。
 東京からの帰路は新幹線にした。3年半ぶりに見る沿線風景は昔と変わらず、懐かしく感じた。
 その夜、弁護士ニエベスに、労働ビザを取得したと、感謝の意をメールで伝えた。
(5)再びスペインへ
 出発までの4日間は慌ただしく過ぎた。総重量約30キロを超える書籍類を船便
航空便とトランクにわけて、優先順位と経済性を両立させるのは結構難しい作業である。
 関空発の飛行機は朝7時35分発なので、7月31日に大阪に予約ずみのワシント
ン・ホテルに前泊の必要があった。地元駅まで妻が送ってきて、午後4時過ぎの新幹線で出発した。次に妻に会えるのは何時になるのか、まだ先が読めない。とにかく今は仕事の目処を立てる事が最優先課題である。うまく行けば1年後になるのかも知れない。 家を出る前に妻はつぶやいた。
「もし母に何かあったら帰国するの?」
 出発前に妻の母に挨拶したが、心臓病で度重なる発作を起こし、昔のような元
気な姿ではなかった。妻には親の問題が残っているのだ。
 大阪で1時間近く待って関空快速線に乗り臨空タウン駅に1時間後に到着し
た。電車の中のOLや女子学生は皆、手に携帯電話を持って何やら無心にボタン操作をしている。この姿は地方であれ、都会であれ電車の中で見る標準的風景である。女子高校生が電車のなかで化粧する風景もそうであった。
 大体この年頃の女性は、化粧などしなくても一番美しく輝いている年齢でないのか。スペインやアメリカ人の娘達に化粧を見た事はない。
(6) 空港にて
 8月1日、朝6時に起き、シャワーを浴びて準備にかかった。
 7時5分にホテルから空港行のバスが出る。昨夜チェックイン時に予約をしておいた。昨夜方々へ電話をしたので自動支払機の操作に時間を取られバスには最後に乗り込んだ。
バスは関空への橋を渡り、空港出発ロビーに15分後に到着した。まず宅配便で送ったトランクを受け取り、ルフトハンザ航空のチェックイン・カウンターに向かった。最初に予約変更料240ユーロの支払いを命じられた。その後でトランクを渡し、ビルバオでの受け取り伝票を確認した。
 朝食にサンドイッチを食べたが美味くない。空港利用料金2600円を支払って入場した。ここ2~3年で料金が1000円近く安くなった気がした。パスポート・コントロールでは出国カードの扱いが廃止された事に気付かず、日本人用のカードを探した。多くの日本人が同じ動作を繰り返していた。
 無人電車で出発ロビーに向かった。最後のタバコを吸って、フランクフルトに向かう多くの日本人が待ち合わせる座席に腰かけた。
日本の一時帰国の印象は
「暑い夏」「物価高」であった。
後30分でヨーロッパへ向け出発する。
今回は以前と違い、首にかけた貴重品袋の中にはスペインの労働ビザが記載されたパス ポートが入っている。スペインで語学留学を始めて2年と8カ月、やっと念願の労働ビザを手にした。
 4年前に会社を辞めた時、「スペインで仕事を探す事を夢見る少年」と言われ、恥ずかしく思い続けてきた。
今やっと、それが恥でもなく自慢する事でもない、自分流の生き方だと素直に思えるようになった。長い日本でのサラリーマン生活から脱出し、若者が見るような夢を追い求めスペインまで来て、失敗や挫折を繰り返した結果、幸運にも半ば諦めかけていた就職を手にする事が出来た。
 労働ビザを得たことは1つの筋目であり、本当の第二の人生は今から始まる。
 しかし外国での生活には何が起こるか依然として想像がつかない。
 これからも失敗に明け暮れる事は確かで一つ一つ学習して乗り越えるしかない。半年後には会社から首の宣告を受けるかも知れない。テロを恐れて逃げ帰るかもしれない。
たとえそうであれ、自分が選んだ道である。自分と妻が納得出来ればそれでいい。そして結果がどうであれ、いつまでも希望と若さだけは持ち続けたい。

 餞にサミュエル・ウルマンの「青春の詩」が聞こえてくる。
 人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。
 人は信念と共に若く、恐怖と共に老ゆる。希望ある限り若く、失望と共に朽ちる。
                                   完

  スペイン・バスク滞在回想録は今回で終了とさせてもらいます。長い間ありがとうございました。今後はその2(会社生活)を整理して連載する予定です。ご期待下さい。                             viejo71