スペイン・バスク滞在回想録

5-13 クリスマス
(1) 履歴書送付
 12月が近づくと、ルールデスは新聞の求人広告を私に渡しながら
 「履歴書の送付準備はもう出来たの?」
と妻が言うような口調になった。彼女自身も
「これはどう?」
 と新聞を切り抜いて持って来る。この頃は絵画教室にすっかり生活を安定させていたので
「また面倒くさい説教が始まった」くらいに感じていた。
 日本のイケルからスペインに電話があった時も、
 「父の会社に履歴書を送った?」
と質問された。イケルがまだスペインにいた頃、会社のカタログをもらっていたので何を生産する企業かぐらいは承知していた。
 丁度機械設計便覧の用語抜粋集と商用手紙文の書き方の要約を終えようとしていたので。「時期が来た」と思った。だめでも良いから一度履歴書をイケルの父の会社に送ってみようと思った。どうせ送るのなら最初は知り合いが良い。イケルの父親の会社に出す事にした。
「何故スペインで働きたいのか」「スペイン語能力」「技術用語能力」を添付した履歴書を送付した。このころの私は
「人に運がないと嘆くのは嘘で、人の周囲にはいくらでも運が巡り回っている。それを  つかむ事が出来るかどうかであり、運ではなく才覚である」
と悟ったような事を考えていた。
履歴書送付は運をつかむための第一歩であった。うるさく言うルールデスの言う事も当然であり、新聞求人広告も本気で見てその次を探す気になっていた。
ルールデスと約束した12月初日からは1週間遅れで、とにかく就職活動を開始
した。日本のイケルにE-mailで履歴書を送った事を伝えた。イケルからは
「履歴書を送ったから仕事が決まると言う事ではない。幸運を祈る」
と返信があった。

 (2) 大学前期終了
 11月の後半、大学前の道路沿いの街路樹が一斉に葉を黄金色に変えた。
と思うや否や、12月初めには完全に葉を落としてしまった。大学の前期コースが終わる12月15日、街路樹は枝・枝を露出し、太陽光線は遮られる事なく歩道の表面に注がれる。この街路樹は高さ10~15mのプラタナスが主で約10m間隔に植えられた並木は延々と続く。まだ気温は15度もあると言うのに、自然は季節を先取りして、冬の準備に早々と取りかかっていた。
 大学では、各月1回の割合で試験が行われる。
アメリカ人留学生は単位の取得に必死であるが、私は全く無関係。実力さえつけ
ばよい。試験結果は平均点85点で評価Bクラスであった。
この期末試験が終わるとアメリカ人留学生はほとんど米国に帰国する。
同じクラスの19歳のリアと21歳のキャサリンは私と同じように引き続き冬季
コースを継続する。彼女達はクリスマスを迎えてから帰国すると言っていた。
(3)クリスマス
 クリスマスを迎える2週間前から街の道路上空間にイルミネーションが飾られツ
リーが街のあちこちに置かれた。
市場の前には家庭用ツリーの販売業者が道路沿いに店を出し、スペイン語のジン
グルベルが流れる。すでにスペインのクリスマスも宗教色は薄れ、日本同様に商戦合戦に姿を変えつつある。それが証拠にルールデスは教会にも行かない。
 この時期食品は20%ほど値上がりするので、庶民にはありがたくない時期だと
も言う。サンタクロースの話はスペインでも同じで、子供達は靴下を吊るしてサンタクロースの訪問を待ち焦がれるらしい。
 クリスマス・イブに日本人の空手の先生の家に招待された。
先生宅はベリージョ地区にあり、妻と一度訪問した事がある。邸宅は時価1億ペ
セタの値打ちがあるらしい。夫人のルールデスの母親はアルツ・ハイマー病で世話が大変らしい。そのためルールデス夫人は5キロも痩せたと話していた。
 スペインでもアルツ・ハイマー病患者のことが社会問題になっている。サンセバ
スチャンにもその種の収容施設があるが順番待ちが大変らしい。日本でも昨年の4月から介護保険制度がスタートしたが、今では遠い国の話に感じる。
 この街では精神病患者やダウン症患者が多いと言われる。日本と少々異なる風景
は老人を車椅子に乗せ散歩に連れ出したり、ダウン症の子供達を引率して街を歩くグループの姿をしばしば見かける事がある。
 先生の邸宅からの帰り道に聞いた話によると、クリスマス・イブは各家庭で夜
9時まで過ごし、その後は人々が一斉に街に繰り出す。それにもれず、私の住む
地区レイジェス・カトリコ通りにも大勢の人たちが2時3時まで騒いでいた。
(4) 正月
 クリスマスから正月へと家庭の主婦は財布のひもをしめる暇がない。大晦日はノーチェ・ビエハと言う。日本の紅白歌合戦と同じような歌番組が各チャンネルで放送される。スペインではやはり、フリオ・イグレシアスが大御所でその息子のエンリケ・イグレシアスも若手流行歌手である。
 サンセバスチャンにも「オレハ・デ・バンゴー」というグループ歌手がいて、ス
ぺイン全土で人気を集めている。グループ歌手の名前の意味は(画家ゴッホの耳)である。老友アントニオの末娘の夫はオレハ・デ・バンゴーのマネージャをしていると聞いた。
 大晦日、ルールデスは両親の家で過ごすので、私はフアンマと2人で家にいた。マドリドのプエルタ・デル・ソルの「鐘の音」を合図に新年を祝う。全国放送のテレビで1舜1舜をカウント・ダウンする中継を放映していた。
この鐘の鳴り終わらぬ内に12個のブドウを食べれば今年も幸せに過ごせるとの習わしがある。
 私もそれに従って20世紀に別れを告げた。
 1月7日はレイジェス・マゴスという全スペイン的な祝日で、日本で言えば子供の日である。クリスマスから始まった一連の行事もこの日で終止符を打ち、食品物価も通常に戻る。
5-14 就職活動開始
  1月8日の朝8時過ぎに携帯電話が鳴った。こんな時間に電話が鳴ることは珍しい。昨年の12月の初めに履歴書を送った、イケルの父親の会社からの電話であった。あまりに連絡がないので、あきらめてルールデスの勧める新聞をもとに、パンプローナの会社に履歴書を送る準備をしていたところであった。
電話口の男性は
「1月11日にサンセバスチャンのホテル・アマラで面接をしたい」
と言ってきた。私はもちろん了解をした。
 1月11日、少しめかしこんで出かけた。私は貧乏生活に似合うような、スペイン流気楽な服装で生活をしていた。学生の身分なので、それ以上の必要もない。
 ホテル・アマラは思出深い場所である。1昨年のバス放置事件、昨年妻とイケルと共に食事をした場所である。
履歴書には写真を添付していたし、私が東洋人だから面接の相手にはすぐに判るはずだが、私には相手が判らない。ホテルのレストラン入口に近い席に座って待った。約束の11時半を少し回ったころ、
「セニョール・・・」
と言って青年が私の前に現れた。責任者G氏という若い男性であった。
 面接ではおもに前会社での仕事内容について質問され、最後に
「グループでの仕事の経験と過去扱った製品をまとめてほしい。デバ村の会社で2回目の面接をしたい。日程は後から連絡をする」
 と言われた。大体30分程度で終了した。その後デバの会社訪問は1月17日と連絡があった。宿題をまとめて出向いた。
 会社工場を見学した後、生産性向上に対する技術的意見を求められた。面接には元技術責任者で現在の営業責任者も同席して、1時間半程度の質疑応答が行われた。 この時の自分の会話は文法完全無視、単語の羅列だったと思う。
 面接後イケルの父親と軽い挨拶をした。この時スペイン語の丁寧語を使うべきかを君言葉を使うべきか迷ったが、思わず後者を使った。
 とにかく2回にわたる面接はすませたという感じだ。後は相手側がどう決定するのかを待つだけである。
5-15 大学後期開始
 デバ村での面接の翌日から大学の後期授業が始まった。前期はスペイン語文法と会話を選んだが、今回は最後となるので欲張った。
 スペイン語文法、西洋美術史スペイン語記述法、外国での英語記述法、スペイン語検定試験DELE最上クラスの5教科だ。
このうち「外国での英語記述法」は実際に授業に参加してみてアメリカ人学生対象なので無理とあきらめた。またDELEも教え方の上手いはっきりした先生なので惜しいと思ったが絵を描く時間を考慮すると、そのほかの宿題をやる時間がなくなると思いあきらめた。
 西洋美術史は、試験が難しい評判にかかわらず、非常に人気の高いクラスと聞いていた。その理由は先生にあった。個人的にも絵を描くかたわら、16世紀以降のヨーロッパ美術史を是非学んでみたかった。特に印象派の画家たちの勉強に興味があった。教室いっぱいに生徒が陣とるため、授業は午前と午後に分けられた。私は午前に回されたため、午前と午後と2回大学に行く事になる。その面倒を差し引いても、西洋美術史の授業には価値があった。
 教師はイナキという40歳を少し過ぎた男性だ。彼は教科書に頼らず、自分の経験をもとに話を進める。全身をよじりながら美術に対する喜びと驚嘆を表現するため、迫力を充分に感じた。この大学を選択した日本人の多くがこの授業に参加した、と彼の口から日本人の生徒名が続けて飛び出す。授業はバロッコ美術から始まった。
5-16 労働ビザ申請用紙   
 (1)労働ビザ申請
 1月30日会社の責任者G氏より電話があった。
「君にタルヘタ・ベルディーを与えるので、サンセバスチャンの当局に出向いて書類をもらってくれ」
 との指示があった。早速ルールデスに電話連絡し、場所を確かめ出向いた。
 その場所はポダミネスというアノエタ・サッカー場の前で、労働省出先機関があった。イサベルという名の女性責任者が対応してくれた。
「今は何をしていますか」
最初にそう質問されたので
「学生です」
と言って、大学USACが発行した授業料の領収書を見せたところ
「学生ビザと労働ビザは同時には与えらません」
と言われた。そして
「これは会社が用意するもの、これは貴方が準備するもの」
と言って関係書類を渡され、さらに
「一度会社の責任者は私に連絡するように」
と言われた。その夜会社のG氏にFAXを書き翌日送付した。
(2)学生ビザ
 ポダミネスに行った翌々日の2月1日、警察から電話があった。
学生ビザの発行準備が出来たので出頭せよとの事だった。申請をしてから半年目である。昨日、イサベルから
「一度警察に学生ビザの件で経過を質問した方が良い」
 とのアドバイスをもらった矢先であった。
 スペインの警察は4種類に分けられる。国家警察、州警察、特別安全警察、市民警察である。学生ビザを扱うのは国家警察で、その玄関では自動小銃を肩からかけて構えながら周囲を威嚇しながら見張っている。テロ活動の矛先はこの国家警察に向けられていると聞いた。
 警察へ出向くと、絵画教室でよく見かける男性が受付業務を担当していた。
銀行で手数料800ペセタを支払うと、1カ月後に証明書を取りに来るよう指示があった。学生ビザの関係書類は入手した。この書類があれば証明書と同じ効果を持つ事になる。しかし今、学生ビザの価値は私には色あせて見えた。目標は労働ビザである。