スペインで就職を回想録  ヨーロッパへの空路

1章 27年ぶりのスペイン
 1-1ヨーロッパへの空路
 1)出発
 1998年1月21日、JALPACマドリド10日間の旅のスタートは、大阪空港7時35分が集合である。前泊したホテルの送迎バスは7時丁度に出発し、5分後には空港に到着した。
 空港内はスキー板をかついだ若者たちで混み合っている。早速JALのチェックイン・カウンターを訪ねると、担当の女性がJALカードを胸につけて待っていた。
 「ほかにお客はいないのですか」
 「お一人様です」
少し寂しい気がした。係員と別れセキュリティチェック後、ラウンジでお粥セットの朝食をとった。その後15番ゲートから成田に向かった
 成田では土産のCDを買う仕事が残っていた。実は、すでに買ったキャノン・スーパGのコンパトカメラを友人の土産にするのか自分で使うのか迷っていた。階段を上りCD店を探した。山口百恵秋桜という曲が入ったCDを買うことに決めていた。スペイン人には語り調の歌がふさわしいと昔から勝手に思い込んでいる。日本語が解ろうが解るまいが。他に高橋真莉子と小田和正とを買った。CDを買いながらカメラはホセにCDは夫人アナ・マリアの土産にと決めた。
 出発まで2時間の余裕はあっと言う間で、気がつけば残り1時間しかない。急いで昼食のカレーを食べこれですべて準備が完了した。
 すでに大阪空港で搭乗券を受け取っているので成田でのチェックインは必要ない。空港利用券を自販機で買っていよいよ出発である。
 セキュリティチェックと出国審査を終了後、サテライトに向かうシャトルバスに乗り込んだ。ゲート番号C83のロビーに来たが、少し待ち時間がある。係りの女性に、禁煙席から喫煙席に座席を変更してもらった。しばらくして、アムステルダム行き12時30分発JAL411便の搭乗アナウンスが始まり、手荷物と共に機内に乗り込んだ。
 いよいよ私を乗せた飛行機MD11が離陸する。この瞬間を何度夢みたことだろう。しかし離陸の瞬間に思っていたほどの感激はなかった。
 飛行機は一度、成田上空を太平洋側へ出て旋回する。本州上空を横切り、日本海を経てシベリア大陸上空からアムステルダムに向かう。
 成田上空から見下ろす街には雪がまだ残っていた。やがて西に雲上の冨士山を見る。美しい。
 2)機内
 機内の乗客は少なく空席が多く目につく。私の隣席も空席で実に具合がよい。
 1回目の食事が終わった頃、腕時計はまだ日本時間のままで15時20分をさしていた。
 スチュワーデスに現在地を聞くと、後方の控室で確認し「ハバロフスク上空です」と答えてくれた。外はまだ明るい。高度9800メートルを時速850kmで飛行している。1分間に2kmの速さである。
 シベリア上空は山の頂に雪をかぶり平原に川が複雑に蛇行するのが見える。川の状態は川面に積もった真っ白な雪でわかる。やがて下界を覆った雲はまるで羊の群れのように見えた。時間の経過と共に雲の様子が変わり、ぽっかりと穴があいた。さながら池を見るようである。川の上空は気流の変化が激しいのか、山を築いたようにも見えた。
機内で映画が始まろうとしていたころ、私は少し眠ったようである。気が付くと、日本時間の時計は19時半をさしていた。これを機会に時計を現地時間に合わせた。またスチュワーデスに場所を聞いた。
 「今ENISKEY川の上空です。現地時間は夕方の4時ころなので薄暗いかと思います」
2回目の簡単な食事の後、飛行機はだんだんとアムステルダム上空に近づき、旋回しながら高度を下げて行く。アムステルダム到着は現地時間の夕方5時と聞いたが、下界はまだ明るくスキポール空港付近の農家がはっきり見えた。きれいに整備された広い畑の区画に各1軒の家が見え、それが連続していた。オランダの農家はみな富農かと思えた。空港に連絡された道路に車が列を作り走っている。
 3)アムステルダムスキポール空港
 スキポール空港にはほぼ定刻の17時に到着した。成田を出発して実に12時間半をあの狭い座席で過ごしたことになる。この空港で乗換えの時、現地の係員が案内すると聞いていた。ボーディングブリッジを降りると、日本語の看板を掲げた若いオランダ人男性の係員が日本語でゲート番号を教えてくれた。
 空港の案内表示に従って歩く。スペインまで行く日本人はいないと思っていたが、私を含め4人もいた。かなり長い距離を歩いた、途中階段を上がり免税店などの店がたくさん並ぶ広場に出た。目指すゲートはまだ先のように思えたが、突然パスポートコントロール(入国審査)に出くわす。前を歩く黒いコートを着た日本人婦人に思わず質問した。
「どうして、ここで入国審査なのですか」
EU統合後はヨーロッパの最初の訪問地で、EUを代表し入国審査が行われますよ」
 と婦人は説明してくれた。なるほどと思った。EUの貨幣統一が2002年と聞いていたがEUはすでに機能していたのである。いわゆるヨーロッパの地に入国したが目指す乗換えゲートはまだ遠い。
 待合ロビーは空港の中心部から最も離れた場所にあり飲物自販機も置かれていない。
 JAL413便の搭乗アナウンスが始まった。いつのまにかロビーに人が溢れていた。当然のことながらほとんどMADRIDに向かう外国人である。税関はここで行われると聞いていた。鞄の中身はノーチェックだがセキュリティチェックが厳しい。ポケットの小銭まで出してゲートを通過した。
 4)マドリド到着
 飛行機は737-400型機で長距離国際線のものより座席空間は随分狭い。機内アナウンスはオランダ語、英語、スペイン語の順に流れた。英語は聞き取れるがスペイン語はわずかに単語が拾える程度である。アムステルダムを離陸して約2時間半後の21時50分マドリドのバラハス空港に到着予定である。離陸後軽食が出るがテーブルを広げるといっそう狭さを感じる。
 やがて飛行機はマドリド上空にさしかかった。真っ暗な下界に空港周辺は金色に輝く島が浮かんだように見える。飛行機はゆっくりと高度を下げ、27年ぶりにスペインの地を踏む私の興奮を抑えるように滑走路に着陸した。
 「やっと来た」
 大阪を出てから約20時間後、この国に思いを募らせて10年目である。
ボーディングブリッジを降りて出口(SALIDA)に向って歩く、スペインでチップが必要性を知らないがホテルの事を考え、日本円2万円をペセタに換金した。空港の待合室に出るとJALの日本人お嬢さんがいた。
「まだ他のお客さんがいますので少しお待ち下さい」
とのこと。見ると日本人の若い娘さんが2人いて換金に向っている。
JALのお嬢さんはマドリドに1年半住んでいると言っていた。
空港から老セ二ヨールが運転する車に乗り合わせた。20分後,アトチャ駅近くのホテル・アグマールに到着した。チェックインは全てJALのお嬢さんがやってくれた。彼女はロビーの席で資料を出し我々日本人に注意事項を説明する。
「マドリドでは黒人が日本人を狙うひったくりの犯罪が多発しています。昨年のクリスマス恩赦で多くの犯罪者が釈放されました。被害を防ぐため、外出は朝10時から夜8時までにしてください。」
「朝9時頃にならないと明るくならず、夜は6時頃には暗くなります。犯罪行為が行われてもスペイン人は巻き添えを恐れ助に入りません。」
部屋は5階の401号室である。1階を0階と呼ぶ。部屋はまずまずの広さと設備である。時間は夜の11時半をまわっていた。日本時間は朝の7時半。一応妻に安着の電話を入れ無事を伝えた。冷蔵庫のミネラル・ウォーターを飲み眠りについた。
 1月22日は無事終わった。